きっと恋だった


2.

しばらく経った月の曜日。
オリヴィエはおとなしく執務机に向かっていた。
急を要する内容はないが、いつなにがあるともわからないのが宇宙だ。
あまりにも溜めてしまうのは得策ではないし、さっさと済ませた方が、ロザリアの負担も軽くなる。
週末の余裕のためにも、早めに頑張っておいた方がいいとわかっていた。

真面目に書類を片付けていると、そーっと扉が開く気配がする。
こんなことをしてくる人物はこの宇宙にも一人しかいない。
オリヴィエが素知らぬ顔で執務を続けていると、そーっと開いた扉から、とことことアンジェリークが入ってきた。

「陛下、用があるなら呼びつけてくれていいんだけど」
「わ!気づいてた?!」
本気でびっくりしているアンジェリークにオリヴィエは肩をすくめて見せた。
「当たり前でしょ。気づかない方が不思議だって」
「え~、ルヴァは全然気が付かないわ。なんなら膝カックンだってできちゃうんだから」
「ルヴァと一緒にされてもね…」
あのぼんやりしたルヴァなら気づかないなんて普通だろうし、本を読んでいる時なら、耳元でオーケストラが演奏していたって気にしないだろう。

「で、なんの用?」
オリヴィエが聞くと、アンジェリークはとことこと近くまで寄ってきて、ちょいちょいと手招きをしてくる。
思わず、身体を傾けると、アンジェリークが耳元に囁いてきた。
「ねえ、ロザリアと付き合ってるってホント?」
ぎょっと目を見開いたのをアンジェリークは見逃さなかったらしい。
「ホントなんだ…」
と、ちょっと不満そうに口をとがらせている。

「なんで?急にそんなこと言い出したのさ」
「あのね!オリヴィエがロザリアの家から出てくるのを見たっていう人がいて。ついでに、一緒に帰るところも見たっていう人もいて」
アンジェリークの言葉に、オリヴィエはなるほど、と納得した。
この狭い聖地のこと。
秘密の関係とはいえ、とくに隠れたりしてはいなかったのだから、誰かに見られていたとしても仕方がない。

「ふーん、そうなんだ」
「それだけ?!」
「だって、別に家に行ったり一緒に帰ったりって普通じゃない?それだけで付き合ってるとかって言われてもね」
我ながら上手い返しだと感心した。
否定はしないけれど肯定もしない。
嘘をつくのではなく、はぐらかすのが、こういう場合の上手い処世術だ。

「そうね。わたしもヘンだなとは思ったの。つい最近、ロザリアはオリヴィエのこと、恋愛対象として見てないって言ってたし」
それはたしかにオリヴィエも聞いた。
けれど、もし、目の前のアンジェリークに、
『ロザリアと恋愛関係はないけれど、肉体関係はあります』
と言ったら、どんな顔をするだろうと好奇心がくすぐられる。
ただし、それを言ったら最後、ロザリアには二度と触れられなくなるだろう。
それはまだ困る。

アンジェリークは顎に手を当てて、少し考えるそぶりをすると、
「それに、ロザリアの家から出てきたって、言われているの、オリヴィエだけじゃないし。やっぱりただの噂なのね」
うんうん、と一人納得した様子だ。
ところが、それを聞いて、
「え?私だけじゃないの?」
逆にオリヴィエがアンジェリークを問い詰める羽目になった。

「うん。オリヴィエでしょ、オスカーでしょ、ゼフェルでしょ、あとは、研究院とか図書館の……誰だっけ?名前忘れちゃった」
アンジェリークはにっこり笑って、指折り数えて教えてくれた。
愕然として、言葉を失ったオリヴィエだったが、アンジェリークはオリヴィエの急変に気が付かなかったらしい。
「一応、オスカーにも聞いてみようかな」
そんなことをぶつぶつ言いながら、出て行ってしまった。


一人残されたオリヴィエは机に脚を乗せて、天井を眺めた。
夢の執務室の天井は先代の頃から変わらず、淡いラベンダーカラーで、なんとなくロザリアのイメージに似ている。
まさか、ロザリアが他の男と?
けれど、彼女があの時初めてだったのは間違いない。
恥ずかしそうに声を抑えていた姿。
痛みに耐えながらも、オリヴィエを受け入れた姿。
シーツに残った破瓜のしるしにうろたえていた姿。
どれも演技とは思えなかった。
ただ、抱くたびに悦くなっていたのは確かだし、もしかして、他の男の手が入っているのかもしれない。
オリヴィエの胸に降りてくる、何とも言えない苦い澱。
ただ、今までオリヴィエのしてきたことを考えると、ロザリアが悪いわけではないことはわかっている。
正式に付き合っているわけでもないのだから、彼女を束縛する理由もないし、お互いに自由なのだ。
誰と寝ようと何をしようと何かを言える立場ではない。
それなのに、何故か執務も手につかず、ただ時間が過ぎるのをじっと待っていた。


「ねえ、ちょっといい?」
結局、オリヴィエは定時にそそくさと執務を切り上げ、補佐官室に向かった。
急ぎの執務がないことは知っていたから、ロザリアも確実に定時上がりだとわかっていたのだ。
ロザリアは突然のオリヴィエの出現にかなり驚いたらしく、目を丸くすると、困ったように眉を寄せた。
「執務のことかしら?プライベートなことなら、家に帰ってから聞きますわ」
聖殿で話すには生々しいとオリヴィエも感じていたから、ロザリアの申し出はちょうどよかった。
どうせ、一緒に帰っていると噂になっているのだ。
噂したい奴はすればいい、とオリヴィエは彼女と連れだって、家に向かった。

「ご用件を伺いますわ」
家に着くと、彼女はまず、着替えをし、紅茶を淹れてくれた。
香りのよいダージリンは、ロザリアの好きな銘柄で、なんども来ているうちにオリヴィエも香りを覚えてしまったほどだ。
春の若菜のような香りを吸い込み、オリヴィエは紅茶を一口含んだ。
すっと気持ちが落ち着いて、やっと周囲を見回す余裕ができた。
趣味の良い調度品や、滑らかな陶磁のカップ。
さりげなく生けられた白薔薇や、手触りの良いファブリックなど、全てがロザリアの趣味で彩られた部屋。
高貴で質が良く、手入れも行き届いている。
まさにロザリアそのものを現したようなインテリアだ。

「あのさ、噂で聞いたんだけど、この家にオスカーも来てるって?」
なかば、やけくその気持ちで直球を投げつける。
すると、ロザリアは腑に落ちた、という表情で、背中をソファのクッションに預けた。
「あの噂のことですわね。ええ、なんどか来ていますわ。お菓子や花を持ってきてくださいますの。本当にマメな方ですわ」
ロザリアはそれを下心とは思ってもいないようだ。
だが、同じ男という生物であるオリヴィエにはわかる。
おそらく、オスカーも隙あらば彼女をモノにしようと考えているのだろう。
自宅にまで押しかけて、なにもしないとは、オスカーらしくないけれど。

「…アイツと寝てるの?」
つい口から出てしまった言葉にオリヴィエ自身が驚く。
ロザリアも驚いたようで、一瞬、黙り込んで、すぐに下したままの巻き髪を背中に払って、ツンと顎を上げた。
「たとえ、わたくしがオスカーと寝ていたとして、あなたにお答えする理由はありませんわ。…ご自分だってしていることじゃありませんの」
氷のように冷たい青い瞳がオリヴィエを射抜く。
「どういう意味?」
心当たりはありすぎたが、しらばっくれるのもオリヴィエにとっては朝飯前だ。
けれど、
「先々週の金の曜日、わたくしがアンジェとお泊り会だった夜、お家に女性を招いていらっしゃいましたわよね」
どきり、と心臓をつかまれたような痛みが走ったのは、それが真実だったからだ。


ロザリアから断られた日、帰り際に聖殿近くをぶらぶら歩いていたら、顔を知っている女官に声をかけられた。
聖地というのは、見た目の美醜で採用しているのではないかと思うほど、職員たちも美形が多い。
この女官もなかなかに整った目鼻立ちをしていて、下界ならスレンダーなモデルでも通用しそうな容姿だった。
聞けば、結婚の予定があり、近々、聖地を去る予定だと言う。

「セイラと申します。最後の思い出に、守護聖様と…」
オリヴィエは、欲望たっぷりですり寄って来た女官をごく当たり前に屋敷に連れて行き、一夜を楽しんだ。
どうしてもロザリアと比べてしまって、ちょっと痩せすぎだなとは感じたが、誰に教わったのか、口で懸命に奉仕する姿には男の矜持をくすぐられたものだ。
なんてことない、ただの情事。
オリヴィエにしてみれば、ごみ箱に捨てた避妊具と同じくらい、あってもなくてもいいような出来事でしかない。

「別に怒っているわけではありませんの。あなたがわたくしと会っていないときに、どこでなにをしていようと、誰と寝ていようと関係ありませんもの。だから、あなたもわたくしにそういうことを仰らないで。わたくしたち、束縛するような関係ではありませんでしょう?」
オリヴィエははっきりと衝撃を受けた。
ロザリアの言っていることは、一言一句間違いない。
オリヴィエだって同じこと思っていた。
なのに、なぜか、心にとげが刺さったような引っかかりを感じてしまう。

「なんで、そのこと知ってるのさ?」
意識してつまらなそうに問えば、ロザリアはうっすらと微笑んだ。
「実はあの日、ルヴァが急に来て、お泊り会が無くなったんですの。辺境の惑星で貴重な流星群がみられるから、一緒に行こうって誘いに来られて。それで、わたくしもふいに身体が空いてしまったものですから、もしも、あなたがおひとりだったら、と思って尋ねてみたんですわ。先客がいらしたので、そのまま失礼しましたけれど」
ロザリアの口調は冷静で、本当に怒っているようでも、嫉妬しているようでもなかった。
だからこそ、心臓が冷える。

「…先週の金の曜日にはなにも言わなかったじゃない」
言い訳めいて格好悪いことこの上ないが、少しでも反論を試みる。
こんなふうにつるし上げられるくらいなら、先週ベッドの上で責めてくれたほうがマシだった。
「どうでもいいことを詮索したりしませんわ。…そんなことを気にするなんて、オリヴィエらしくありませんわよ。ちゃんと付き合ったりするのは面倒だって、初めに仰っていたじゃありませんの」
その通りだ。
今もなんで、こんな面倒くさいことを言っているのか、オリヴィエ自身がよくわからない。
自分だって、ロザリアと関係を持ってからも、他の女と遊んでいる。
だから、彼女の言うことは正しい。…正しいのだけれど。


「帰るよ」
立ち上がったオリヴィエを、ロザリアが青い瞳でじっと見つめてくる。
「帰ってしまうんですの?明日は執務がありますから、遅くまでは困りますけれど、せっかくいらしたのに」
ほんのりと乗る情欲の色に、オリヴィエはあっさりと理性を手放した。
やっぱり彼女も、それを期待していたのだ。
さっきの言い争いの原因へのお詫びも込めて、今日は特別に悦くしてあげようと決めた。

外へと向かっていた足先をくるりと彼女の方へ変え、隣に腰を下ろすと、唇を奪う。
貪るように舌を絡め、お互いの唾液を飲み込んだ。
ロザリアはどこを舐めても薔薇のような香りがする。
べちゃべちゃと音を響かせた長いキスのあと、そのままソファに押し倒そうとしたオリヴィエをロザリアが軽く押しとどめた。

「シャワーを浴びさせてくださいませ」
執務のあとで、オリヴィエも少し汗ばんでいることを自覚していた。
さっさと抱いてしまうのも手だが、今日は時間をかけたかった。
オリヴィエ得意のテクニックで気持ちよくさせてしまえば、女の子はたいていのことを許してくれるから。

「一緒にならいいよ」
「もう…困った方」
ロザリアは呆れたようにオリヴィエを睨んだけれど、心から嫌がっている様子ではない。
どちらかと言えば、上目遣いの視線には艶っぽい煌めきがある。
オリヴィエは軽々とロザリアを抱き上げると、バスルームに直行した。
広くはないけれど、2人くらいならなんとか入れる猫足のバスタブのなかに一緒に入り、ふざけながら、服を脱がせあう。
頭からシャワーを浴びて、ボディソープでお互いをあわあわにして。
いつもと違うシチュエーションに、オリヴィエもかなり興奮してしまった。
結局、オリヴィエはその夜、ロザリアの寝室で夜を明かしたのだった。


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