Only You (And You Alone)

2.

次の土の曜日。
朝からお菓子作りをしていたロザリアは焼き上がったタルトをトレーに並べると、キッチンのスツールに腰を下ろした。
あとは昨日のうちに用意しておいたアイスボックスクッキーを切って焼けばいい。
頭の中で手順を一通り思い返して、エプロンを取った。
アイランド型のキッチンは一角が広い調理台になっていて、多少散らかっていてもじゅうぶんにお茶を飲むスペースがとれる。
時計を見ると、予定の時間まではまだかなり間があるし、一休みくらいはできそうだ。
さっき淹れたまま、もうすっかり冷めてしまった紅茶に口をつけたロザリアから、ふとこぼれるため息。

結局、この1週間、フランシスからは何の連絡もない。
日に日にあの出来事が夢だったのではないか、冗談だったのではないかと思うようになっていた。
だらしなくテーブルに両肘をついて、カップに口をつけたまま、
「そうですわね。冗談に決まっていますわよね。あんなこと、あの方にとっては当たり前のことなんですわ。」と、呟いてみる。
なぜか自分の言った言葉に胸がチクリと痛むのを感じて、再びため息をこぼした。

すると、ふいに背後から目の前に影が落ち、頬にひんやりとした指が触れる。
「私のことを考えていてくださったのですか…?」
思わず立ち上がったロザリアの耳にスツールの倒れる大きな音が響くと、優しい腕が背中を抱きとめた。
「危ないですよ。…それともこうして、私がずっと抱きしめていた方がよろしいですか?」
「いいえ!結構ですわ!!!」
大きく跳ねる鼓動に気付かれるないように、ロザリアは声をはり上げると、フランシスの腕を振り払った。
遠ざかろうと大きく踏み出した一歩先からフランシスを睨みつけると、彼の菫青色の瞳は甘くロザリアを見つめている。

「なにか御用ですの?」
「約束通り、貴女に会いに来たのですよ…。私の愛しい人。」
また、抱きしめられるのではないかと身を固くしたロザリアの手を取ると、フランシスは甲にそっと唇を寄せた。
「この日をずっと待っていました…。ほんの7日とお思いでしょうが、私にとってはまさに千日・・・いいえ、千秋の想いでした…。」

もし、これがウソだとしたら。
なんて甘美なウソだろう。知っていても騙されていたいとさえ思ってしまう。
彼の優しげな瞳はまるで本当に恋をしているかのように、ロザリアを見つめている。
騙されたりしない、と、ロザリアは空いている手をぎゅっと握りしめた。
「わたくし、お茶会の準備がありますの。貴方とお話している時間はありませんわ。」
「ええ、存じています。お茶会の間、その時だけが私達に許された時間だということも…。」
「それはどういう意味かしら?」
フランシスは物憂げに首を振ると、さも辛いというようにため息を吐きだした。

「私がここにいられるのは、陛下がこちらにいらっしゃる間だけなのです…。お茶会が終われば、私はあちらの宇宙に戻らなくてはなりません…。
ですから、どうか、ロザリア様。今この時から、私を貴女のそばに置いてください。それだけで私は幸せになれるのですから…。」
まるで映画を見ているようだと、目の前のフランシスを見て、ロザリアはそう思ってしまった。
大仰なセリフと芝居がかった身ぶり。
なのに、どうしてなのか、やはり不愉快だとは思えなかった。
「仕方がありませんわ。他に行くところがないというのでしたら、どうぞ、ここにいらして。ただし、邪魔はなさらないでね。」
「ええ…。もちろんですとも。貴女のお邪魔になるようなことを、私がするとお思いですか?そんな悲しいことをおっしゃらないでください…。」
ロザリアはあえて、返事をせずに、隅に寄せてあったスツールの一つを少し離れた場所に置いた。

「どうぞ、お使いになって。」
フランシスは置かれたスツールをなにやらじっと見つめている。
もしかすると、こんな固い木の椅子になど、座ったことがないのかもしれない。
実際、自分も料理をするようになるまで、こんな椅子に座ったことはなかったのだから。
どうするのだろう。
クッキーを切って焼こうと調理台にマナ板を置いたロザリアはフランシスの様子を横目で追った。
見られていることに気付いていないのか、フランシスは薄く微笑むと、スツールを持ち上げて、ロザリアのすぐ目の前に座る。
「少しでも、貴女の近くにいたいのです。決してお邪魔はしませんから…!」

すがるような言葉にぽかんとして、口を開けたロザリアにフランシスはリボンのついた包みを取りだした。
「貴女にプレゼントがあるのです。受け取っていただけますね?」
返事をする前に包みを解いたフランシスの手にあったのは、エプロン。
「これをわたくしに?」
「はい。貴女がキッチンに立たれる時に、私の代わりにそばに置いていただけるように選んだのです…。私の代わりに貴女を抱きしめていられるように…。」
フランシスの赤面するような言葉も耳を素通りするほど、ロザリアは驚いていた。

彼が大きく目の前に広げたエプロンは落ち付いたベージュとグレーのボーダー柄。
まるで動物の尻尾のようだと思ったロザリアの目に飛び込んできたのは真ん中についた大きなネコの顔のポケット。
隅にはしっぽをかたどった房まで付いている。
「あの、本当にこれを?」
今まで男性から山のようにプレゼントを貰って来たけれど、こんなものをもらったのは初めてだった。
薔薇の花束でもなく、美しい宝石でもなく、なぜ、ネコのエプロンなのだろう。
フランシスの趣味だとすれば、かなり意外だ。

「可愛らしいでしょう?」
フランシスはとても楽しそうに微笑んでいる。
いつも物憂げな彼のそんな表情を見て、ロザリアはつい自分も微笑んでしまった。
「ありがとうございます。わたくし、ネコは大好きなんですの。嬉しいわ。」
「ええ。知っています。貴女がネコをお好きだということは、とてもよく知っておりますとも。」
なぜ知っているのだろう。彼と話したことなど、ほとんどないのに。
尋ねてみたい、と思って口を開きかけたると、さらに笑みを深くしたフランシスが今まで見たことのないような顔をしていて、ロザリアはなぜか耳が熱くなるのを感じた。

「あ、そろそろ準備の時間ですわ。」
頬まで赤くなりそうで、ロザリアは慌てたように立ち上がると、冷蔵庫へ向かった。
本当はもう少し休んでいてもいい時間だけれど、フランシスと向かい合っていると落ち着かない。
程よく冷えた生地をまな板の上に置いて、慎重にナイフを入れると、綺麗な市松模様が現れて、ロザリアはほっと安堵の息を漏らした。

「なんて美しいのでしょうね…。」
フランシスがカットされた生地をつまみ上げる。
寸分の狂いもなく3段に積み上げられた市松模様は確かに自慢してもいいレベルだ。
「あら。誰にでも出来ますのよ。」
ロザリアは残りにナイフを入れながら、気軽に言葉を返した。
くすりと笑いが漏れたような気がして、ロザリアが顔を上げると、フランシスの菫青色の瞳と視線がぶつかる。
「いいえ。私が美しいと言ったのは、これではありません…。」

「私が美しいと言ったのは貴女です。あまりに貴女が熱い視線を送るので、私はこれにさえ嫉妬してしまう…。」
フランシスの手が生地を軽くつまむと、少しひねったような跡が残る。
「どうか、もっと私を見てください。ここにいる、私を。」
見つめあった時間は、ほんの数秒。
ロザリアの心臓が音を立てて震えた。

「痛っ!」
指先に痛みが走ると同時に思わず声が出てしまう。
ついおろそかになってしまったせいか手が緩み、指先に包丁が触れてしまったのだ。
「どうしたのですか?」
「なんでもありませんわ。」
とっさに答えたロザリアの身体が金縛りにあったように止まった。
いつの間にかフランシスの唇に自分の指が触れている。
その唇がこの間は自分の唇の触れたのだと、思い出して、指先から全身に熱が走った。
目の前の青みがかった髪がとても美しい。
ロザリアはただぼうぜんと立ち尽くしていた。

「いけませんね。…救急箱はありませんか?」
「あ、あちらに…。」
ロザリアが指射した先にある箱を素早くとったフランシスは、器用に消毒すると、包帯を巻き始めた。
「お上手ですのね。」
慣れた手つきにロザリアがそう言うと、フランシスは包帯にハサミを入れてテープでとめた。
「こう見えても聖地に上がる前、私は医者のはしくれだったのです…。
今まで特に何も思っていませんでいたが、こうして貴女のお役に立てたのですから、医者をしていてよかったと思いますよ…。」
「まあ、そうでしたの。」
ロザリアがキレイに巻かれた包帯に触れ、包丁を持ち直すと、フランシスがその手をとめた。
「どうかおやめ下さい。貴女が思うよりも傷は深い…。」
確かに包丁をもつと、指先に痛みが走る。
まだ切り分けていない生地を前に、ロザリアは肩を落とした。
「困りましたわ。お菓子が足りなければ、きっと、みんながっかりしますもの。」
それにきちんと準備ができない自分自身も許せない。
ロザリアがもう一度包丁を持つと、フランシスはさっきよりも強く、その手を押さえた。

「いけません。傷が残ります…。貴女の美しい指に醜い跡が残るなど、私には耐えられない…。もし、よろしければ、私に手伝わせていただけませんか?」
「あなたが?」
「ええ。貴女の指示通りに動く…。それならば問題はないのでは?」
フランシスはすでに傍らに置いてあったネコのエプロンをつけている。
ロザリアは迷いながらもその提案を受け入れることにした。
「では、コレを切り分けていただけるかしら?」
「はい。」
生地を切り分けるフランシスの横顔は、彫刻のように整っていて、伏せ気味な長い睫毛が時折揺れている。

「ロザリア様?」
知らずに魅入っていたのか、フランシスに声をかけられてロザリアははっと我に返った。
「では、次はコレを天板に並べて…。ええ。それでよろしいですわ。」
指示どおりに動いてくれるフランシスのおかげで、なんとか時間前にお菓子の準備を終わらせることができた。
「御礼に、どうぞ。」
一息ついて、スツールに腰を下ろしたフランシスの前にロザリアは紅茶を差し出した。
「ありがとうございます。」
それ以外の言葉が続かずに、ロザリアは黙ってカップの紅茶を口に含んだ。
フランシスも静かに紅茶を飲んでいる。
カップを上げ下げするたびに、紅茶の華やかな香りが辺りに流れてきて、ロザリアもようやく体から力が抜けるような気がした。
「まだ痛みますか…?」
知らずに指先を抑えていたロザリアを見て、フランシスは眉をひそめた。
「いいえ。大丈夫ですわ。きっと応急処置がよかったのでしょうね。」
ロザリアが包帯を見せながら言うと、フランシスはとてもうれしそうに微笑んだ。
「そうですね…! 傷にはすぐに処置をすることが一番ですとも。やはり貴女は素晴らしい方だ…。」
「まあ、処置をしたのはあなたですのに。わたくしはなにもしておりませんわ。」
フランシスはくすりと笑うと、紅茶のカップを置いた。
「ええ。いいのです…。貴女には私がなにかをしてあげたい…。そう思ってしまうのですよ。」
菫青色の瞳がじっとロザリアを見つめている。

また鼓動が急に高くなった気がして、ロザリアは慌てて話題を変えた。
「そのエプロン、とてもお似合いですわ。まるで本物のネコのようですわね。」
「そう見えますか…。とてもうれしいことですね…。」
「嬉しい?」
フランシスが本当に嬉しそうな顔をするのが気になって仕方がない。
「ええ。私は以前、ネコになりたいと思ったことがあるのです。」
「ネコに、ですの…。」

彼の言い方はなにか含みがあるように思えて、ロザリアは思わず顔をまじまじと見つめてしまった。
吸い込まれそうな菫青色の瞳。
また、何かが浮かびかけて、すっと消えてしまう。
時計の鐘が約束の時間を告げた。
「もう行かなくては。みんなが待っていますわ。」
「ええ…。お菓子を運んだら、貴女という花は私のそばにいてくださるのですよね…?」
本当はそんなつもりはなかったけれど。
にっこりとほほ笑んでネコのエプロンをつけているフランシスを見ていたら、とてもそんなことは言えそうもない。
すでに集まっていたリモージュにお菓子を手渡すと、ロザリアはフランシスと午後を過ごしたのだった。


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