02.
ロザリアの幸せな笑顔にルヴァの胸が痛くなる。
目をそらすこともできないほど美しいのは、オリヴィエとの仲がうまくいっている証拠なのだろう。
「明日までにお願いしますわ」
分厚い書類の束をルヴァの目の前に置いたロザリアは、そう言った後、少し申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさいね。陛下ったらなかなか目を通して下さらないんですもの。お届けするのが遅くなってしまいましたわ」
綺麗な指が書類をめくると、附箋の付いた個所を指した。
「ここに必ずサインを」
その美しい手に触れたいと、猛烈にわき上がる感情。
獣の唸り声をルヴァは小さく息を吐いて鎮めた。
「ええ。わかりましたよ。間に合わせるように頑張りますね。ところであなたは手相占いをご存知ですか?」
「手相?」
ルヴァは自分の手のひらを指して、ロザリアに向けた。
「このしわで運勢を見るんです。辺境の惑星ではよく知られているんですがね。最近、ハマってしまいまして。よかったらあなたの手相を見せていただけませんか?」
ロザリアはおもしろそうに自分の手のひらを見つめて、その手をルヴァに差し出した。
「これで、わかるんですの?」
彼女の白く細く柔らかな手に、ルヴァは下から包み込むように自分の指を添えた。
指を軽く握ってもロザリアは不審に思う様子もない。
無防備な笑顔はルヴァへの信頼の証だ。
「ああ、まずは、ここで寿命がわかるんですよ~?」
手のひらのしわに沿って指を這わせると、ロザリアがくすぐったそうに笑う。
柔らかな白い肌。
彼女の体はどこもこんな風に柔らかく、滑らかなのか。
壁越しの彼女の甘やかな声を思い出して、ルヴァの指が熱を持つ。
カツン、と響く靴音に、ルヴァは耳をすませた。
廊下を叩く細いヒールは間違いなく、彼だ。
昨日、彼にいくつか執務を渡しておいたから、そろそろ来る頃だろうと予想していた。
時間通り、と根は真面目な彼にほくそ笑む。
いきなりドアが開くと、
「はーい、ルヴァ」
オリヴィエが顔を出した。
彼女の手を握っていることを十分見せつけてから、
「あ~、いらっしゃい」
ルヴァはそっと手を離した。
オリヴィエの表情がすっと色を失い、瞳に宿る獣の色が危険な光に変わる。
「すっかり引きとめてしまいましたねえ、ロザリア」
感情を隠しているつもりなのだろうが、オリヴィエの心がルヴァには痛いほどわかる。
激しい嫉妬。
彼の獣が咆哮をあげるのが聞こえるようだ。
オリヴィエの鋭い目に気づかないフリをして、ルヴァはロザリアに微笑んだ。
「あら、占いはもう終わりですの?」
「ええ、まだ勉強途中で……今度、恋愛運も調べておきますよ」
微笑みを絶やさず、少しからかいの口調を織り交ぜると、ロザリアはオリヴィエをちらりと見て頬を染めた。
彼との恋愛を意識しているのだろう。
けれど、オリヴィエにはそのロザリアの視線の意味はわからなかったに違いない。
怒りの感情は人を無能にするものだ。
「行こう。」
半ば強引にロザリアの手を引いて、オリヴィエは出ていった。
きっと、この後、自分の執務室に連れていくはずだ。
そして。
ルヴァも執務室の鍵を閉めると、あの空間の小部屋へ向かった。
予想通り、二人は夢の執務室の奥の間にいる。
ルヴァが聞き耳を立てる前に、ロザリアの声が響いてきた。
「お待ちになって。こんなのはいや。」
ロザリアは明らかに拒絶していた。
二人がどうしているのか見ることはできないが、声におびえのような物を感じ取って、ルヴァは息をのんだ。
どさり、とソファに押し倒されて、さらに重いものがのしかかるような軋む音。
オリヴィエとは思えない、低く掠れた声で、
「私のいない所で他のオトコと話さないって約束、忘れたの?手まで握らせて、嬉しそうだったよね」
ばさばさと乱暴にドレスを捲りあげる気配。
「やん!」
オリヴィエが強引に押し挿ったのか、ロザリアから小さな悲鳴が漏れる。
「濡れてるじゃない。ルヴァに手を握られて感じてたんじゃないの?」
「ち、違いますわ……この部屋でいつも……する、から……」
「ふうん、この部屋に来ただけで、いやらしい事を想像して濡らしちゃったんだ。えっちだね」
からかうようなオリヴィエにロザリアの返事はない。
令嬢として育てられた彼女にとって、オリヴィエから投げられた言葉は屈辱なはずだ。
身体に押し込まれた楔の痛みもあって、ぐっと堪えるだけで精一杯なのかもしれない。
オリヴィエは構わず、
「違うの?じゃあ、挿れられてすぐにこんなに濡れてるんだ。すごいよ、ほら」
パンパンと肌を激しく打ちつけている。
わざと水音を響かせるように、大きく抜き差しを繰り返しては、
「こんなにいやらしい音させて、ここもとろとろだよ」
「きゅうきゅう締めつけてくるね。気持ちいいの?」
言葉でもしつこいほど、ロザリアを嬲り続けている。
ソファのきしむ音の激しさがオリヴィエの激情を伝えていた。
オリヴィエの瞳にいた獣をルヴァはよく知っている。
彼女を愛し始めてから、ルヴァがずっと悩まされてきた獣。
オリヴィエが彼女のそばにいるようになってから、幾度となく檻を破ろうとし心に牙を立てたその獣を、いつの間にかルヴァは飼いならしていた。
おそらく何も無ければ、ずっと眠らせておくこともできただろう。
けれど、オリヴィエは違う。
彼の心に棲む獣は、飢えを知らない。
誘えばどんな女でも望みのまま手に入れて来たであろうオリヴィエの獣は、知らなかった感情をもてあまし、彼女にそのまま襲いかかるのだ。
「今度こそ約束だよ。私の目を盗んで他のオトコを誘惑しようとしたら許さないからね」
体のぶつかりあう音が激しさを増す。
「ん、……もう、しませんわ」
ロザリアの啼き声は、オリヴィエへの切ない懇願にも聞こえて、ルヴァは唇を噛んだ。
これから、彼女をもっと傷つけるかもしれない。
泣かせてしまうかもしれない。
けれど、一度放たれた獣は、獲物を得るまで休むことを知らない。
オリヴィエの漏らした長い息で情事の終わりを知ると、ルヴァは静かに小部屋を出て、何事もなかったかのように執務机に座った。
緊張のあまり、いつの間にか握りしめていた拳は、手のひらに爪痕を残している。
ルヴァは目の前の書類を手に取ると、ロザリアのつけた附箋を愛おしそうに指でなぞったのだった。
数日後。
いつも同じ時間に聖殿に現れるロザリアがいない。
補佐官付きの秘書から体調不良で休んでいることを聞いたルヴァは、薬を持って、昼休み前にロザリアの家へ向かった。
きっとオリヴィエには連絡をしているだろうが、今日、彼の執務は立て込んでいるはずだ。
彼女の病状を確かめて、少しでも二人の時間が持てればそれでいい。
ベルを鳴らしたルヴァの前に、夜着にカーディガンを羽織ったロザリアが現われた。
そういえば、日頃、ほとんどを女王と過ごす補佐官の彼女の邸には住み込みのメイドがいないのだ。
たった一人で伏せっていたのかと思うと、なにか手助けしたくなるし、無理に起こしてしまったのかと思うと、申し訳なさで胸がいっぱいになる。
「ああ、すいませんね。あなたが倒れたと聞いて、お薬を持ってきたんですが~。大丈夫ですか?」
「ごめんなさい。実はこうして立っているだけで目が回りそうなんですの。」
熱のせいかピンク色に染まった頬も潤んだ瞳も、いつもよりずっと悩ましい。
ふらつくロザリアの手を取ると、たしかに熱を持っていた。
ルヴァが手を引くように、そのまま寝室へ向かうとロザリアはベッドにどさりと倒れ込んだ。
礼儀正しい彼女がこんな様子を見せるとは、本当に身体が辛いのだろう。
息も荒く、額に汗が滲んでいる。
薄い夜着の開いた胸元や、綺麗な素足を見ていられなくて、ルヴァはすぐに横になるように勧めた。
女王候補のころも、過労で倒れたロザリアを見舞いに来たことがあった。
あの頃はまるで少女だったのに、今のロザリアは女性としての色香を十分に備えていた。
弱った状態の今なら力づくで自分のものにしてしまうこともできる。
けれど、それでは、心は永遠に手に入れることができないだろう。
ぐるぐると唸りながら顔をあげた獣の喉をなでつけると、獣は小さくうずくまった。
薬を飲み終えて、やっと落ち着いたロザリアが大きく息を吐き出した。
もしかして一人では水をとりに行くことすらできなかったのかもしれない。
少しでも彼女が楽になれたのなら、ここまで来たかいがあった。
「ありがとう、ルヴァ」
「いえいえ、もっと果物とか気の利いたものを持ってくれば良かったですねぇ」
「ふふ、今度はお願い致しますわ」
二人きりの時間は久しぶりだった。
オリヴィエの言いつけを守っているのか、ロザリアが地の執務室にやってくることは極端に減っている。
逆にルヴァは一番効果的な時間を狙って補佐官室を訪れるようにしていた。
オリヴィエに見せつける、ただそのために。
玄関のドアの開く音がしたが、ロザリアは全く気付いていない。
薬の効果もあって、少し眠いのかもしれない。
さっきまでよりも吐息は楽そうだが、ウトウトしている気配がする。
……早く来ればいい。
来て、見て、そして。
「……なんであんたが」
オリヴィエの瞳の獣は恐ろしいほど、激しく燃えている。
「お見舞いですよ~。お薬を持ってきたんです」
ルヴァは静かに微笑んでみせた。
「あ、オリヴィエ、来てくださったんですのね」
ロザリアの瞳が嬉しそうにキラキラと輝く。
けれど、オリヴィエは彼女を硬い表情で見下ろし、シーツを首までしっかりと持ち上げた。
ロザリアの肌の一部分でも見せたくないのだろう。
そして、彼女の寝ているすぐ側に腰を下ろすと、額に手を当てた。
「まだ熱っぽいね」
「ええ、でもさっき、ルヴァからお薬をいただきましたの。少し楽になりましたわ」
彼女には無邪気にオリヴィエに報告している。
「そうなんだ。わざわざロザリアのためにありがとうね」
ロザリアとの特別な関係を誇示するようなオリヴィエの態度。
あくまで、彼女は自分の所有物だとルヴァに示したいのだろう。
「いいえ、貴女がいないと聖殿が寂しいですからね。陛下も心配していましたよ」
「まあ、いつもわたくしが陛下に健康管理を口うるさく言っていますのに、恥ずかしいですわ」
ほんのり頬を染めて、ルヴァと会話を交わすロザリアをオリヴィエが恐ろしい目で見ている。
嫉妬といくばくかの狂気。
オリヴィエの中の獣はもうすぐ暴れ出す。
そう感じて、ルヴァは立ち上がった。
見送りをしようとするロザリアを押しとどめて、オリヴィエが玄関まで付いてきた。
「お見舞いありがと。ロザリアも喜んだと思うよ」
オリヴィエの口調はいつもと変わらないが、ルヴァにはよくわかる。
喉元にかみついている、あの獣。
ルヴァはオリヴィエの前でわざと顔を赤らめた。
「いえ、あなたが来てくれて助かりましたよ~。あんな姿の女性と部屋に二人きりでいたら、たとえ私でも照れますからねぇ。信用してくれるのはありがたいのですが、困りましたよ」
とどめを刺したルヴァの言葉に、オリヴィエの顔色が変わる。
隠せない獣のオーラがオリヴィエの全身から流れ出した。
予想通りの反応にルヴァは会釈をして外に出ると、寝室の窓の下で耳をすませた。
「おやめくださいませ。」
かすかにロザリアの声がする。
それだけ聞けば、もう十分だった。