06.
ざわざわと激しい喧噪の中、ロザリアは辺りをきょろきょろと見回しながら、人混みを縫って歩いていた。
話には聞いていたけれど、この惑星は聖地や主星に比べれば、まだまだ未発達だ。
便利な端末もなければ、大通り以外はロクに整備もされていない。
おそらく、これまでの危機で文明の発展が妨げられていたのだろう。
夢のサクリアの重要性は、目に見えるモノではないけれど、未来への希望という意味で文明の発展には欠かせないモノなのだ。
大きな声の物売りがそばを通り過ぎ、ロザリアは道の端へと慌てて避けた。
いつものドレスではなく、ごく普通の、むしろ質素なワンピースは、この惑星でも浮かないスタイルだ。
お泊まり用に持ってきた大きなバッグが少し重いけれど、身軽な服装はとても楽で、自然に足も速くなる。
もちろん、浮き足だっているのが服装のせいだけではないことは、ロザリア自身が一番よくわかっていた。
昨夜、突然ルヴァが訪ねてきた。
執務の後、わざわざ私邸までやってきたから、何か大変な事態でも、と身構えたロザリアに、彼は意外なことを言い出したのだ。
「実は先ほど連絡が入りまして。例の惑星の件が無事に片付いたそうなんですよ~」
「まあ、それはよかったですわ」
ということは、オリヴィエがもうすぐ帰ってくるということだ。
ロザリアは素直に喜んでいた。
すると、ルヴァは僅かに身を乗り出し、
「貴女がオリヴィエを迎えに行くというのはどうでしょう?
明日の朝一で星の小道を通れば、すぐにオリヴィエのところに行けますよ」
「え、でも……」
「早く彼に会いたいという、貴女の気持ちはよくわかっていますよ。真面目なのも良いですが、時には自分へご褒美をあげてもいいのでは?
……きっとオリヴィエも喜びますよ」
気まずい思いをしているロザリアを思っての提案だろう。
ルヴァの優しさがこのところ塞ぎがちだったロザリアの心に染みてくる。
「会いたい、ですわ」
ぽろりと本心がこぼれると、もう行くしかないような気持ちになった。
「ええ、陛下には明日の朝伝えておきますから。貴女はなるべく早くオリヴィエのところに行ってくださいね。あ、これはあの惑星に行くときの注意なのですが、服装や持ち物などちょっと気をつけた方がいいことをメモしておきました」
ルヴァが手渡してくれた紙には、オリヴィエの居る場所と、簡単な注意書きがあった。
あの惑星での一般的な女性の服装や、文明の違いなど、小さな事だがありがたい。
女王補佐官という身分をあからさまにしないお忍びでの行動なのだ。
注意できるに越したことはない。
「なにからなにまで申し訳ありませんわ」
ロザリアがお礼の気持ちを伝えると、ルヴァはにこにこと笑って
「・・・貴女が幸せでいることが私の望みなんですよ。明日、オリヴィエに会ったら、私へのお土産もねだっておいてください。そうですねえ、あの惑星の文字で書かれた旅行記などが嬉しいですねえ」
「ふふ、わかりましたわ」
ルヴァはお茶を一杯だけ飲むと、すぐに帰ってしまった。
本当に、ルヴァの心遣いや賢明さには感謝しかない。
明日の朝、早起きして、すぐに行こう。
会ったら最初にこの間のことを謝って、そして、ふたりきりでゆっくりとあの惑星でデートを楽しむのもいいかもしれない。
荷物を詰めながら、ロザリアの心は、もうすっかりオリヴィエの元へ飛んでいた。
「ここですわね」
オリヴィエが滞在しているというホテルは、星の小道の出口からすぐのところにあった。
特に豪華でもなければ、ぼろぼろと言うほどでもない。
至って普通のありふれた田舎のホテルといった風情だ。
あえて、この惑星の研究員が目立たない場所を選んだ上での潜伏先なのだろうが、オリヴィエにはおよそ似つかわしくない。
灰色にすすけた壁を見上げて、ロザリアの心臓はドキドキと高鳴った。
ルヴァのくれたメモを見ながら、部屋への階段を上がる。
ロビーには客がぱらぱらと居て、エレベーターを待っていたのだ。
3階程度ならエレベーターを使うほどでもないし、緊張を沈めるのにもちょうどいい。
早朝とはいえ、チェックアウトの客が多いのか、2mほどの狭い廊下には、雑多にリネンなどが置かれていて、慌ただしい空気が流れている。
どうやらオリヴィエの部屋はフロアの最奥の特別室のようだ。
ドアの前に立って、バッグを持ち直したロザリアは、数回深呼吸して、部屋のベルを鳴らした。
すぐには返事がなく、ロザリアは二度目のベルを鳴らした。
この時間に留守と言うことはないだろうが、もしかしたらまだ眠っているのかもしれない。
三度目のベルをならしてしばらく待っていると、ようやく
「はーい」
いかにも寝起きで不機嫌そうなオリヴィエの声がして、ロザリアは思わず微笑んでしまった。
ぱたぱたとチープなスリッパの立てる足音がすぐそばで止まり、がちゃりと扉が開く。
少し重そうなスチールのドアが少しずつ開いていき、オリヴィエの姿が見えてきた。
どうやら本当に寝起きらしい。
彼らしくなく、金の髪はあちこち寝癖で跳ねているし、もちろんノーメイクだ。
しかもだらしなく羽織っただけのガウンは胸元が大きくはだけていて、下に何も来ていないのがまるわかりだ。
合わせ目からちらちらとのぞく素肌に、ロザリアは思わずうつむいて赤面してしまった。
「あの、朝早くからごめんなさい。どうしてもあなたに会いたくて来てしまいましたの」
視線を合わせるのが照れくさくて、うつむいたまま、そう言うと、オリヴィエがハッと息をのんだのがわかった。
きっとものすごく驚いて、少しは呆れているのだろう。
基本的に、守護聖も補佐官も聖地からやすやすとは出られない。
執務でもなくこんなところに来るのは完全なルール違反だ。
「なんで、あんたが・・・」
オリヴィエの声は驚きに満ちている。
けれど、きっとすぐにロザリアを優しく抱きしめてこう言うのだ。
『来てくれて嬉しいよ。私もあんたに会いたかった』と。
ところが、目の前のオリヴィエは固まったまま、それ以上なにも言ってはくれない。
不思議に思ったロザリアがようやく顔を上げると、オリヴィエはダークブルーの瞳に明らかな困惑の色を浮かべている。
それどころか拒絶の空気を感じ取って、ロザリアは足が震えてくるのがわかった。
「あの、昨日で任務が完了したと伺いましたの。だから、今日は、ここで二人で過ごしたらどうかと言われて・・・」
足の震えが声に伝わって、うわずってしまう。
どうして彼は何も言ってくれないのか。
どうして。
たぶんその沈黙はほんの一瞬で、けれど、永遠に忘れられない一瞬になった。
「やだぁ、もう朝なのぉ?」
部屋の奥から聞えてきた、知らない女の声。
反射的にロザリアはオリヴィエの横をすり抜けて、部屋の中へ足を踏み入れていた。
特別室と言うだけあって、部屋は広々としていて、リビングとベッドルームが独立した造りになっている。
リビングの中央には、この惑星ではそれなりに高級品なのだろうソファセット。
高い天井のシャンデリアは朝なのになぜか電気がついていて、散らかったままのテーブルにはワインの空き瓶がいくつかととうっすらと底に飲み残しが残ったグラスが二つ。
バスルームのすぐ横には、無造作に脱ぎ捨てられた服の山。
明らかに女物と思われる派手な赤いドレスもある。
ロザリアは吐き出しそうになる心臓を抱えたまま、奥のベッドルームに目を向けた。
ベッドルームへのドアは開け放たれていて、なにかの気配がする。
「ちょっと、待って」
背後からオリヴィエが呼び止めたけれど、ロザリアの足は止まらない。
きっと見ない方がいいに違いない。
今すぐにでも部屋を出て、向かいのカフェで彼が身支度を終えるのを待っていると言った方がいい。
そうすれば、知らなかったフリができる。
理性はそう警鐘を鳴らしたけれど、感情がいうことをきかなかった。
ドアをくぐると、大きなキングサイズのベッドが目に入る。
そして、部屋に充満する、濃密な男女の匂いや、散らばった下着類。
まるでドラマのようにはっきりとわかる情事の名残だ。
「あら、ルームサービス?それならそっちのテーブルにおいておいてぇ」
シーツにくるまり、ロザリアを一瞥したのは全く知らない女性。
目鼻立ちのはっきりした美人だが、オリヴィエよりも年は上だろう。
漂う色気とシーツの上からでもわかる豊満な身体は、男を虜にするプロの筋の女だ。
長い金の髪をけだるげにかき上げ、眠そうに目を瞬かせている彼女は、明らかに裸でベッドに寝転んでいる。
ロザリアの足ががくがくと震える。
彼が昨夜、ここで誰と何をしていたか。
聞かなくてもわかってしまった。
「あのね、これはさ」
いつの間にかオリヴィエがロザリアの背後に立っていた。
彼ももはや言い逃れはできないと悟っているのか、言い訳を重ねるつもりはないようだ。
ただ焦りと狼狽は、顔を見なくても伝わってきた。
ロザリアはすう、と肺の奥までゆっくりと空気を吸い込んだ。
悲しいとか悔しいとか、怒りとか疑問とか。
いろんな感情が渦を巻いて襲いかかってきて、すぐには言葉が出ない。
けれど。
「お邪魔をしてしまいましたわね。わたくしは彼の同僚ですの。仕事が終わったことを確認するために参りましたのよ。それだけですから、どうぞごゆっくり」
ベッドの上の女性に、にっこりと微笑んで見せた。
そして
「まだ残務処理がありますでしょう?お帰りは急がなくても構いませんわ。研究員の方々にもよろしくお伝えくださいませ」
オリヴィエにも、そう言って礼をとった。
今は泣くときではない。
この女性の前で、醜く取り乱すのは、ロザリアのプライドが許さない。
「待って」
彼が腕を掴もうとした手を押しとどめ、ロザリアはまっすぐ背筋を伸ばした。
「ごきげんよう」
凛と目を見据えて、ゆっくりと部屋を後にする。
一度も振り返らずに。
あとはどうしたのか、彼がどうしていたのか、ロザリア自身も覚えていない。
走って逃げ出して、そのまま星の小道に飛び込んだ。
心臓がバクバクと波打って、息が苦しい。
あの部屋の匂いと、あの女性の顔を思い出して吐きそうになる。
聖地の小道の出入り口に着いたとたん、ロザリアはその場に座り込んで動けなくなってしまった。
「どうかしたんですか~?」
不意に上から優しい声が降りてきて、ロザリアが顔を上げると、心配そうに見つめるルヴァのグレイの瞳と目が合った。
「なんだか私も落ち着かなくて、つい、ここに来てしまったんですが~。ちゃんとオリヴィエとは会えましたか?ずいぶん早いお帰りですねえ」
いつも通りののんびりした微笑みに、ここが聖地なのだと実感した。
穏やかな風と暖かな日差し。
小鳥のさえずりが耳を通り過ぎ、あの惑星のがやがやした喧噪がまるで夢だったかのようだ。
ようやく、ロザリアの胸にいろんな感情が蘇ってきた。
彼の裏切りは悔しくて、なぜそんなことができるのかと怒りもあり。
けれど、一番はただ悲しくて、胸が張り裂けそうだ。
「う・・・」
座り込んだまま、突然泣き出したロザリアの隣にしゃがみ、ルヴァは彼女の背を撫でた。
激しい嗚咽を繰り返すロザリアの姿は痛ましく、ルヴァの胸も痛んだ。
事態はルヴァの期待通りに運んだのだろう。
言い逃れもできない状況を、きっとロザリアは目撃したに違いない。
昨日、ルヴァが電話をかけたのは、あの惑星で今回の異変に対して聖地と協力していた上層部の人間だ。
異変のデータ収集の際などで、何度もやりとりを繰り返し、私的な連絡と取れるまでに関係を築いた。
それもこれも、あの電話のためだけだ。
『やっと任務も終わりですね。最後にどうか彼をねぎらってあげてくれませんか?』
こう言えば、あの惑星でどんな接待を受けるか、ルヴァにはわかっていた。
まだ文明が未発達の惑星では、意識が低く、手軽に酒と女で憂さ晴らしをするのが普通だ。
きっとオリヴィエにもいいお酒といい女という『褒美』をあてがうだろうと予想がついた。
けれど、これはあくまできっかけを与えるだけに過ぎない。
オリヴィエが断れば、そこで終わりなのだ。
ロザリアと出会う前、オリヴィエはよくオスカーと任務終わりの遊びについて盛り上がっていた。
その当時は聖地を離れた開放感で遊びたくなるのも仕方がないとも思えたが、今はロザリアという存在がある。
だから、賭けだった。
ある意味、ルヴァはオリヴィエの真心を試したのだ。
もしもオリヴィエがまだ彼女にふさわしいと思えたのなら、獣を懐柔し、再び彼女の幸せを祈るだけの男に戻ってもいい。
それなのに。
この彼女の様子を見れば、ルヴァは賭に勝ってしまったのだろう。
ルヴァの獣はむくりと起き上がり、オリヴィエの心臓に食らいついて大きく咆哮を上げている。
もう、彼には返さない。
泣き続けるロザリアの背を撫で、ルヴァは密かに微笑んでいた。
翌日の昼すぎ、オリヴィエは王立研究員の一団と聖地に戻ってきた。
あの惑星を見守り続けた研究員のグループも異変の修正とともに解散し、新たな任務に所属することになったのだ。
どうやら向こうでは、昨夜、上層部から大規模な慰労会が開かれ、十分にねぎらいを受けてきたらしい。
どの顔も多少の疲れは見られたものの、一つの危機を救った満足感がある。
ただ、やはりオリヴィエはきらびやかな執務服にもかからわず、どこか浮かない表情をしていた。
謁見の間に、女王以下聖殿の中枢が集められ、研究員のリーダーから今回の全容の説明が行われた。
「みんな、よく頑張ってくれました。わたしからもお礼を言うわ。しばらく特別休暇にするから、ゆっくり疲れをとってね」
慈愛の微笑みの女王からの下賜に、研究員達はキラキラした瞳で謁見の間をあとにした。
彼らの中には妻子がいる者も多いし、ここ数ヶ月の泊まり込みの任務はかなりキツかっただろう。
特別手当を込みとしても、しばらくの休暇は妥当と思えた。
「あ、オリヴィエ、ちょっと待って」
説明会が終わり、守護聖たちだけが残った場で、女王が玉座からオリヴィエを呼び止めた。
女王は、重そうなドレスの裾をちょいちょいとさばくと、ロザリアの制止も聞かず、あっという間に下へと降りてくる。
小柄な身体なのに、やはり女王には相応のオーラがある。
皆がどきりと足を止め、女王の言葉を待った。
「ねえ、ホントにヤっちゃったの?」
しん、と周囲の空気が一変する。
ルヴァもゴクリとつばを飲み込み、今度はオリヴィエの返事を待った。
息をするのもはばかられるような沈黙なのは、もちろん、守護聖達も皆、昨日のロザリアの状態を知っているからだ。
昨日、ようやく泣き止んだロザリアを、わざわざ聖殿に連れてきたのはルヴァだ。
ロザリアが親友である女王と話したいと言ったこともあるが、ヒドイ状態のロザリアを皆に見せつけることで、オリヴィエの裏切りを知らせる思惑もあった。
「ロザリアはどうしたのですか?」
人一倍、心配性なリュミエールが真っ先に声をかけてきて、
「どうやら、その、オリヴィエが他の女性と一緒にいるところを見てしまったようなんです」
「他の女性と?」
「ええ、あ~、どうやら裸でベッドの中だったらしくて・・・」
ルヴァは曖昧に濁しつつ、わかるように伝えた。
すると、リュミエールは明らかに顔色を変え、
「それは・・・」
と絶句していた。
聖殿の噂好きは時に迷惑だが、こういうときは楽だ。
リュミエールから他の守護聖たちにもロザリアの異変の理由がすぐに伝わり、何も言わないまでも、明らかに空気が違っていた。
オリヴィエは、ふう、と大きく息を吐き出して肩をすくめた。
そして、ちらり、と玉座の傍らに立っているロザリアを見て、きっぱりと言う。
「ヤったよ。大変な任務が終わって、気が緩んだって言うか、テキトウに息抜きしたくなっちゃってさ」
メッシュの入った金の髪をかき上げたオリヴィエは、どこか開き直っても居るようだ。
元々、彼は人に賛同される事を良しとする男ではない。
自分のポリシーがあれば、他人からの中傷など気にしないのだろう。
「ふうん。そうなのね。ヤっちゃったなら仕方ないわよね」
女王は少し考えるように顎に手を当ててから、可愛らしく、まるで女王候補時代に戻ったような姿で小首をかしげた。
「あとは二人の問題だから、わたしから言うことはないけど、わりとオリヴィエのことは信用してたからちょっと残念だわ。
まさかロザリアをこんなに傷つけるなんて。
わかってたら、絶対にロザリアをけしかけたりしなかったのにな」
にっこりと笑顔の分だけ、その怒りが目に見えた。
「それじゃあ解散ね。みんな、本当にお疲れ様」
女王は降りてきたときと同じように、ドレスの裾をつまんで軽快に玉座へ上がると、ロザリアの手を引いて、奥へと消えていった。
気まずい謁見の間に残された守護聖たちも、ぱらぱらと自分たちの部屋に戻っていく。
「任務についてはよくやった。あの惑星も発展していくことだろう」
ジュリアスが去り際に、最低限のねぎらいをかけたが、あとは誰一人、オリヴィエに声をかける者は居ない。
オリヴィエもどこか宙を見つめたまま、じっと動かずにいた。
「どうだ、俺の部屋で」
オスカーが見かねたように、ぽんと肩を叩いて、歩くように促した。
二人が連れ立って出て行くのを、最後まで見届けて、ルヴァは謁見の間の扉を閉めたのだった。