Pasqueflower

5.


まだ朝靄のかかるほどの時刻。
朝を告げる鳥の声が窓越しにわずかに聞こえ、ロザリアは目を覚ました。
おそらく、今日が女王候補として迎える最後の朝になる。
明日にはアンジェリークが女王に選ばれ、聖地へと召集されることになるだろう。
着替えを済ませて頭のリボンを結び終えた時、ドアを叩く音がした。

「おはよう!ロザリア!」
アンジェリークの金色の髪がふわりと覗く。
ロザリアは少し眉をよせて見せると、すぐにほほ笑んだ。
「もう、アンジェ。ノックと同時に開けたのでは、意味がないでしょう?もうすぐ女王になるんだから、マナーを覚えなくちゃダメよ。」
「ごめーん。」
アンジェリークはペロッと舌を出して、部屋の中へ入ってきた。
勝手知ったるロザリアの部屋。
いつも通り、ベッドに腰を下ろすと、レースのクッションを抱きしめた。

「どうかなさって?」
いつもなら機関銃のようにおしゃべりを始めるアンジェリークが、今日は黙ったまま、クッションを抱きしめている。
ロザリアは最後の身だしなみに、首筋にトワレをつけると、アンジェリークの隣に座った。
赤い顔をして、クッションを抱きしめているアンジェリークの金の髪。
自分と違う、ふわふわして柔らかい髪は、本当に天使のようだと思う。
ロザリアは軽く指で梳くと、少し曲がっていた赤いリボンを解いて、結び直した。
「あのね・・・。」
珍しく、言いにくそうにしているアンジェリーク。
ロザリアは話を促すように、クッションをつついた。

「わたし、今夜、ある方のところに行こうと思うの…。」
「えっ。」
一瞬、ロザリアは息をのんだ。
ずっと、一人だけを選べないと言っていたアンジェリークが、試験の最後になって、やっと本当の想い人を見つけたのだ。
ロザリアは喜びをかくさずに、アンジェリークに抱きついた。

「誰なのかしら?」
一番仲が良さそうなのはランディだが、アンジェリークとお似合いなのはオスカーの気もする。
「それは…言えないわ。まだ、断られるかもしれないし…。上手くいったら教えるから。」
「そう…。」
残念だったが仕方ない。
アンジェリークの不安な気持ちもよくわかるから、無理にとは言えなかった。

「だから今夜、告白したいの…。」
女王になれば、今までのように自由に過ごすことはできなくなる。
その前に、と決意したのだろう。
真っ赤になったアンジェリークがとても愛おしくて、ロザリアは思わず優しく抱きしめた。
「がんばって。わたくし、応援しているわ。」
「ありがとう。」
潤んだ緑の瞳。
ロザリアはアンジェリークの手を握ると、小さく微笑みあった。

しばらく、手をつないだまま、二人で女王試験の思い出話をした。
長いようで、短かった試験期間。
ロザリアにとって、アンジェリークという親友は、それこそ特別の存在になった。
できれば、アンジェリークが想い人と幸せになってほしい。
幸せな気持ちで女王になってほしい。
「ロザリアは…?ルヴァ様と、一緒にいなくていいの…?」
急に尋ねられて、はっとした。
アンジェリークの言う通り、今日が最後の夜になることは間違いない。
昨日、ルヴァとキスをしそうになったことを思い出した。
自分はルヴァと一緒にいたいのだろうか? アンジェリークのように。
はっきりと頷けない自分が不思議だった。



気がつけば、アンジェリークはとっくにジュリアスの執務室に向かっている。
あいさつ回りに行く、というアンジェリークに、ロザリアはどうしてもついて行けなかった。
敗北を受け入れてはいるが、それを突きつけられるのはやはりみじめだ。
ロザリアは最初にフェリシアへ向かった。
中の島まではまだまだ到達しないが、開拓された町は全てロザリアの願いどおり美しく整っている。
あとはここで暮らす人々に未来を託したい。
ロザリアが最後の祈りをささげると、フェリシアの民が眩しげに空を見上げているのが見えた。

それから最後になるかもしれない景色を目に焼きつけようと、ロザリアは森の湖に来ていた。
飛空都市の気候は穏やかで、頬に触れる風も心地よい。
「いつ見ても綺麗…。」
キラキラと光りを弾く湖面に、小さな虹がかかっていた。
一見華やかなのに、人気のない湖は、全てを受け入れてくれるような優しさに満ちている。
とても美しくて目を奪われた。

「ロザリア?」
振り返ると、オリヴィエが立っていた。
木々の透き通る光が、オリヴィエの身体に降り注ぎ、まるで虹色のオーラのようだ。
一瞬、言葉を忘れた。
「なにしてるんだい?」
声をかけられて、夢から覚めたように、ロザリアはうつむいた。
恥ずかしくて、まともにオリヴィエの顔を見られない。
昨日、急に泣き出してしまったこと、それを慰められたこと。
それ以上に、今、オリヴィエのことを考えていたことを知られたくなかった。

「さきほどフェリシアに別れを告げてまいりましたの。もう、わたくしにできることは祈るだけですけれど。」
答えをはぐらかしても、オリヴィエは気にしなかったようだ。
「そっか…。あんたはよく頑張ったよ。」
オリヴィエはロザリアの隣に並び、静かに湖面を見つめている。
ロザリアの胸がざわざわと、さざ波のように揺れ始めた。

「オリヴィエ様には、好きな方がいらっしゃるのですか…?」
思い浮かんだことがそのまま口に出てしまったことに、ロザリアは戸惑う。
なぜ、こんなことを言ってしまったのだろう。
「あの、申し訳…。」

「いるよ。」
オリヴィエは視線を湖面に向けたまま、静かに、けれどはっきりとそう言った。
「ずっと好きなんだ。でも、彼女には絶対、手が届かない。」
苦しそうな声は、いつものおどけた様子でも、ただ優しいだけでも無く。
振り返った時に浮かんだ表情は、愛しさと同時に切なさが溢れていて。
ロザリアは足が震えるのを感じた。
それほど、オリヴィエはその女性のことを想っているのだ、と知ってしまったから。
ざわめいていた胸が凪ぎ、代わりに息ができないほど苦しくなる。

「あんたはルヴァと会わなくていいの?…最後の日なのに。」

ロザリアは自分がルヴァのことを忘れていたことに気がついた。
そう、今の今まで、本当に忘れていたのだ。
「え、ええ。夜に会う約束をしていますの。最後の夜を二人きりで過ごそうと…。」
嘘をついている自分が信じられない。
約束どころか会うつもりすらなかったのに。
オリヴィエは「そっか。…よかったね。」と、今日初めて、ロザリアをまっすぐに見た。
ダークブルーの静かな瞳に見つめられて、ロザリアは抑えていたモノがどっとあふれ出すのを感じた。
このままでは、また泣き出してしまう。
ロザリアはさっと背を向けると、一目散に駈け出した。
流れ出した涙の理由は、自分でも全くわからなかった。


「ロザリア!」
オリヴィエが伸ばした手は、ロザリアには届かなかった。
駈け出していった彼女の背が小さくなるまで見送った後、オリヴィエは湖面に小さな石を投げ込んだ。
起きた波紋が映っていたオリヴィエの姿を、輪の形に歪めていく。
「あんたが好きなんだ…。」
最後に伝えてしまえば、よかったのだろうか。
たとえ、オリヴィエがロザリアに想いを告げたところで、今さら何も変わらない。
彼女は補佐官になり、聖地で暮らすだろう。
聖地でルヴァと恋人同士として過ごす彼女が、今まで通りの態度でオリヴィエに接してくれるとは思えない。
それなら、せめて最後に想いだけでも伝えたほうがよかったのではないか。
アンジェリークと密約を交わした時は、ロザリアが聖地に来てくれるだけでいいと思っていた。
笑顔でいてくれさえすればいい、と。
なのに今は、それだけでしかないことが辛い。

今夜、ロザリアはルヴァと過ごすつもりだと言った。
いくら彼女が奥手でも、そのことの意味を知らないとは思えない。
もう、手を伸ばしても、彼女に触れることさえできないのだ。
オリヴィエが見つめた先で、小さな雫が一つ、湖へと流れ落ちていった。



森を抜けて少し先まで走ったロザリアは、足をもつれさせながら、道の真ん中で立ち止まった。
逃げ出してしまったことを、今は少し後悔している。
この息苦しい気持ちの意味が、もう少しでわかりそうなのに。
「ロザリア、探しましたよ~。」
ふいに後ろから声をかけられて、ロザリアは思わず振り向いた。
「どうしたんですか?」
ルヴァの声にはっと頬に手を当てた。
涙は止まっていたけれど、頬に伝ったあとは隠しようもないほどはっきりとしている。
近付いてきたルヴァは、懐からハンカチのようなタオルのような長い布をとりだすと、その端をたたみ、ロザリアの頬をぬぐった。
「すみませんねぇ。こんなものしかなくて。」
少し困ったような、穏やかな口調。

「ああ、これは手ぬぐいと言いましてね。ある辺境の惑星ではタオルのように、ハンカチのように、利用されているモノなんです。
この独特の柄が風情があると思いませんか~。」
おそらく泣いていたであろう女性を前にして、講釈を始めるところがいかにもルヴァらしい。
ロザリアはくすっと笑みをこぼした。
やはりルヴァの持つ空気は、心惹かれる。
「本当に変わった柄ですわね。」
長い布に浮雲の図案。単色だがはっきりとした色遣いは、どこかモダンにも思える。
「ええ、この惑星は他にもいろんなおもしろい風俗がありましてね。こっそり集めているんですよ~。」
ひとしきり、手ぬぐいの歴史などを話した後、ルヴァはどこかそわそわしながら切り出した。

「よろしければ、今夜、私の家に来ませんか?」
ルヴァのグレイの瞳が熱くロザリアを見つめている。
「この飛空都市で過ごす最後の夜を、その…。貴女と過ごしたいと…。そう思ったんですが…。」
耳まで真っ赤にして話すルヴァ。
ロザリアはさっきまで感じていた苦しさが消えていくのを感じた。
ルヴァといると安心して、穏やかな気持ちになれる。
これは自分がルヴァに感じている特別な想いのせいなのだ。
「はい。伺います…。」
気がつけば答えていた。
一緒に過ごしたいと望まれる幸せが、胸の中に溢れてくる。

ルヴァは大きく息を吐きだした。
「いえ、すごく緊張してしまいました~。あの、夕食も準備しておきますから、その、あの、貴女はそのまま来てくださいね。」
手にしていた手ぬぐいで、ルヴァはなんども額を拭いた。
ロザリアがその様子を見て、またくすりと笑っている。
「あ、あの、では、後ほど…。」
ルヴァはまだ顔を赤くしたまま、足早に聖殿の方へと戻って行った。
今から、部屋の掃除でもするのだろうか。
きっと、寝る場所もないほど、本で溢れかえっているに違いない。


ロザリアは落ち着かない気持ちになって、つま先で地面を踏むように歩き出した。
足元に落ちる木の葉が、踏まれるのを避けるように舞い上がる。
本に溢れた部屋で、ルヴァと一夜を過ごす自分が想像できない。
むしろルヴァはそういった行為とは全く無縁な気がするのだ。
浮世離れした独特の空気がルヴァに惹かれる所以なのだから。
では、誰なら、想像できるというのだろう。
考え出すと、胸が苦しくて、頭がおかしくなりそうだ。
フェリシアとの別れも終わった今、ロザリアのできることはなにもない。
それにどこか疲れていて、ルヴァとの約束までに少しでも休みたかった。
ロザリアは足を引きずるように候補寮に戻ると、ベッドに倒れ込んだのだった。


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