7.
ルヴァとオリヴィエの屋敷はそれほど遠くはない。
すぐ先に屋敷が見えて、ロザリアは走るのを止めて歩き出した。
夜は足音さえ吸い込んでいるように静かだ。
ましてや今日は最後の夜。
いつもより特別な空気が漂っているせいか人影は全く見当たらなかった。
一つだけぼんやりと明かりのついた部屋が次第に視界に入ってくる。
そこに、オリヴィエがいるのだと思うと、走って逃げだしてしまいそうだ。
けれど、ルヴァの優しさに甘えて、ここまで来た。
ルヴァに応えるためにも、きちんと自分の気持ちを伝えなければならない。
ロザリアが玄関のドアに触れると、ドアは音もなく自然に開いた。
もともと治安のいい飛空都市で、わざわざ玄関に鍵をかける人は少ないのだろう。
候補寮でさえも、玄関は開いていた。
暗い屋敷に足を踏み入れたロザリアは、なぜかイヤな空気を感じて、ゾクリと身を震わせた。
けれど、廊下の奥にうっすらとある光を頼りに、ロザリアは足音を忍ばせ、ゆっくりと前に進む。
見つかったら、不法侵入になるのだろうか?
けれど、いつものオリヴィエならば、笑顔で出迎えてくれるはずだ。
なんと言って話せばいいのか、期待と不安の入り混じった複雑な気持ちが、心のアンテナを狂わせていた。
真っ暗な中を眼を凝らして進むと、明かりのほうに人の気配がする。
緊張しながら1/3ほど開いたドアをのぞきこんだロザリアは、目を見開いた。
降り注ぐ豪華なシャンデリアの光。
その煌々と輝く光の下で、二つの人影が絡み合っていた。
白い背中に流れる金の髪。
彫刻のように美しい身体をしっとりと汗が包み、シャンデリアの虹色の光を弾いている。
見たこともない『男』の顔をしたオリヴィエが、女の足を抱え、激しく身体を揺すっていた。
重なり合うせいで女の顔はわからない。
けれど、はっきりと二つの体がつながっているのが見えて、ロザリアは瞳を閉じることもできずに凝視してしまった。
オリヴィエが自身を出し入れするたびに、みだらな水音が耳に響いてくる。
荒い息使いは、からかうようないつもの声とは違い、まるで獣のようだ。
美しくネイルの施された指が、胸の先端をつまむと、女の背が大きく反る。
「ああ…。」
小さく聞こえる喘ぎ声。
ぐちゅぐちゅとかき回すようなオリヴィエの動きに、女から苦しげな吐息が漏れてくる。
見てはいけないと思うのに、ロザリアは目が離せなかった。
知識として知っていても、目の当たりにするのはもちろん初めてだ。
しかも今まさに、想いを伝えようとしていたオリヴィエが、別の女性と。
喉がからからに乾いて、声を失くしてしまったようにさえ感じる。
オリヴィエが大きく腰を動かすと、「ああんっ!」と、悦がる女の声がした。
初めて、はっきり聞こえた女の声だ。
聞き覚えのあるその声に、ロザリアの呼吸が一瞬止まる。
まさか。
足元から震えが来て、ロザリアは女を見ようと目を凝らした。
激しく身体を打ち合う音がして、一層水音が激しくなる。
「ああ!!オリヴィエ様ぁ!! いいのぉ。もっと、もっとぉ。」
女が自ら大きく足を開き、オリヴィエのモノを貪るように、腰をくねらせた。
足を開いた先に、ふわりと柔らかそうな金の髪がのぞく。
女の手がオリヴィエの後頭部を掴み、自分の方へと引き寄せた瞬間。
はっきりと顔が見えた。
声を聞いた時は、ただ似ているだけかもしれないと思った。
けれど。
オリヴィエの方へと顔を寄せ、激しく唇を吸っている女の顔は、間違いなくアンジェリークだった。
頭の奥の方を鈍器で殴られたような衝撃に、ロザリアは倒れそうになる自分の体を必死で地面に縫いとめた。
倒れて二人に気づかれでもしたら。
アンジェリークの嬌声が聞こえて、後ずさりしながらも思わず耳をふさいだ。
玄関のドアが大きな音でしまったことにも気付かず、ロザリアは夜の中に飛び出していった。
遠くに聞こえたドアの音に、オリヴィエは動きを止めた。
もしかすると、オスカーあたりが訪ねてきたのかもしれない。
一瞬、躊躇して身体を引き抜こうとしたオリヴィエをアンジェリークの両足が挟み込んだ。
「見られたって構いません。もう、わたしは女王になるんですから。」
オリヴィエを押し倒したアンジェリークが上に乗って腰を振り始めた。
踊るように腰を打ちつけながら上下に揺するアンジェリークに、オリヴィエの硬さが元に戻っていく。
「ああん!」
アンジェリークから零れた蜜がオリヴィエの身体に滴り落ちて、さらに淫らな音が大きくなった。
全身を震わせてのぼりつめたアンジェリークが、ギュッとオリヴィエを締め付ける。
力が抜けたアンジェリークの体を再び下にして、オリヴィエは激しく身体を打ちつけた。
官能に意識を乗っ取られたように、再びアンジェリークが悦がり声を上げ始める。
「ああっ!!!」
身体をよじらせ、猛りを飲み込もうとするようにうごめくアンジェリークの体に、オリヴィエは熱を吐きだした。
すうっと身体から熱が引くと、同時に心が冷める。
行為の後にむなしさしか残らないのは、そこに愛が無いからだ。
汗にまみれた身体を気だるげに起こし、アンジェリークが髪を掻きあげた。
「今日のオリヴィエ様、すごかったですよ。こんなにイったの、初めてかも。」
くすり、と笑った緑の瞳が細く歪む。
オリヴィエがロザリアを忘れたくて、わざと快楽の波に溺れたのに気づいているのだろう。
けれど、結局アンジェリークを抱いている間も、ロザリアのことが頭から離れなかった。
今頃、彼女はルヴァの下で、こんな風に乱れているのかもしれない。
アンジェリークを抱きながら、オリヴィエはロザリアを重ねていた。
「何か服を貸してもらえませんか?破れちゃったから。」
オリヴィエが引き裂いたブラウスをつまんだアンジェリークは、すでに下着を身につけ、まるで何事もなかったような顔をしている。
彼女にとって、セックスは愛とは無関係だ。
守護聖たちを籠絡するために有効な手段。一時の快楽を得るための行為。
ここ数カ月で、何度も肌を合わせてわかったことは、彼女が誰も愛していないということ。
勿論オリヴィエのことも。
のろのろと立ち上がり、シャツをはおったオリヴィエは、私室に服をとりに行こうと、ドアを大きく開いた。
「ん?なにこれ?」
ちょうど光のあたった先に、小さな花が落ちていた。
まるで血のような、赤黒い小さな花。
オリヴィエがこの家に戻ってきた時は、確かにここにこんな花は無かった。
「ねえ、あんた、これに見覚えある?」
長めのチュニックとベルトをアンジェリークに手渡し、オリヴィエは小さな花を指先でくるくる回した。
お世辞にもあまり美しいとは思えない花に、アンジェリークが首をかしげる。
「さあ?こんなセンスの悪い花、プレゼントにもなりませんよ。」
だからこそ気になった。
オリヴィエの私邸にも花は飾られているが、この花はそれのどれとも違う。誰かが持ち込んできたのだろう。
とすれば、いつ。誰が。
オリヴィエの胸が無性にざわついた。
聞こえたドアの音、いつの間にか持ち込まれた花。
はっきりしない暗雲が、重く心に立ち込めてくる。
「オリヴィエ様。」
オリヴィエのチュニックがちょうどワンピースのように見える。
ベルトはせずにゆったりさせたまま、アンジェリークはにっこりとほほ笑んだ。
「わたし、女王になります。これでもう、わたしは誰にも支配されない。恐れることもない。」
意志の強い緑の瞳。
アンジェリークは女王になることで、逃げたかった何かから、逃げられたのかもしれない。
オリヴィエは初めて、アンジェリークを女王にふさわしいと思った。
アンジェリークは目的をかなえるために、清濁を選ばず進める強さがある。
もし宇宙に何かあれば、その身を厭わずに全力を捧げるだろう。
「目的を達して、守護聖は女王の下僕になるってことか。」
「そうですね。わたしにはロザリアがいるもの。」
アンジェリークのロザリアに対する思いは、友情や信頼という言葉では括れない、もっと強い、なにか、だ。
或る意味、純粋な愛情に近いのかもしれない、とさえ思う。
ロザリアもアンジェリークを親友だと言っていた。
彼女の性格からして、決してアンジェリークを裏切ることはないだろう。
女王と補佐官として、これ以上の関係はない。
「おめでとう。新女王陛下。」
心からの祝辞を、アンジェリークも感じ取ったのか、満足そうにほほ笑んだ。
「さようなら、オリヴィエ様。」
もう二度と関係は持たない、とアンジェリークの瞳が告げている。
オリヴィエが何も言わずに唇の端を上げると、アンジェリークは振り向く気配もなく、部屋を出ていった。
明日になれば、彼女が女王になり、ロザリアは、補佐官になるはずだ。
静寂だけが部屋に残り、オリヴィエは汗の残った身体をシャワーで洗い流した。
水の流れに身を任せていると、心の淀みまでも流れていくようだ。
やはりたとえルヴァの恋人になったとしても、ロザリアのそばにいたい。
花のような笑顔を見ていたい。
永遠にこの想いを告げることができなくても。
テーブルに置き去りにしたままだった名も知らぬ小さな花を、オリヴィエはゴミ箱に投げ入れた。
オリヴィエの屋敷を飛び出したロザリアは、自分がどこへ向かっているのも自覚しないまま、ふらふらと夜をさまよい歩いた。
今まで目にしていた光景が、瞳に焼き付いて離れない。
気がつけば、森の湖に来ていた。
日の落ちた湖は、月が湖面に移り、その銀の光だけが辺りを照らしている。
風が流れ、木々がざわめくたびに、銀の光が粒のように降り注いだ。
ロザリアは靴を脱ぎ、足を湖に浸した。
全身を覆っていた熱が、足元から冷えていく。
アンジェリークが最後に想いを伝えに行った人はオリヴィエだったのだ。
アンジェリークには他にも親しくしている守護聖が何人もいて、てっきりロザリアはその中の誰かだと思っていた。
たまに執務室へ行くくらいで、デートをしたという話も聞いたことが無い。
いつの間に、あんなに強く求めるほど、彼を愛していたのだろう。
少し前に、オリヴィエの執務室でアンジェリークと出くわしたことがあったことを思い出した。
ためらい無くオリヴィエの隣に座り、身体に触れたアンジェリーク。
それを咎めなかったオリヴィエ。
あの時、二人の親密さに驚いたが、すでに想い合っていたのだと思えば不思議はない。
「綺麗ですわ…。」
ロザリアが足を動かすと、銀の光の輪がいくつも重なりキラキラとした光を投げる。
昼間とは違う美しさ。
今までロザリアの見たことの無かった『男』の顔をしていたオリヴィエが重なった。
『手が届かない』
オリヴィエがそう言ったのは、アンジェリークが女王になることが決まっていたからなのだろう。
彼が一瞬だけ見せた、狂おしいほどの愛はアンジェリークに向けられたものだったのだ。
不思議と涙は出なかった。
ロザリアにとって、アンジェリークは特別な親友だ。
アンジェリークはロザリアに無い全てを持っている。
愛らしい仕草、誰にでも親しみを感じさせる笑顔。
オリヴィエが、彼女を愛することは、考えてみれば当然のことなのだ。
なのに、この胸の痛みを、どうして消すことができないのだろう。
抑えても抑えても、堪え切れずあふれてくる感情は、醜く汚れたモノばかりだ。
親友の幸せを心から喜ぶことのできない、自分の心がロザリアは許せなかった。
ロザリアが候補寮に戻ったのは、もう空が白みかけたころだった。
結局、眠れないまま朝を迎えたものの、他に行く先も無く、候補寮へ戻ってきたのだ。
頭は冴えていても、身体は重い。
なんとか心を奮い立たせて部屋のドアを開けると、音を聞きつけたアンジェリークが隣から飛び出してきた。
「ロザリア!遅かったのね。心配したわ。」
天使のような笑顔で笑うアンジェリーク。
ロザリアは目をそらして、「ええ。」と小さくつぶやいた。
「やだ、恥ずかしがらなくてもいいのに! …どうだったの?ルヴァ様とは。」
目をそらしたロザリアを、アンジェリークはルヴァと一夜を明かした照れだと受け取ったらしい。
ロザリアの手を握り、緑の瞳をキラキラさせている。
「ええ。ルヴァ様はとても素敵な方でしたわ。」
ロザリアの心が別のところにあると知り、黙って送り出してくれたルヴァ。
改めて彼の人間性に打たれた。
ルヴァに惹かれた自分は間違いではなかったのだと思う。
「そうなんだ!よかった…。」
まるで自分のことのように喜んでくれているアンジェリークから、ロザリアは握られた手をそっと離した。
「アンジェは…。どうでしたの?」
傷つくとわかっていても、ロザリアは聞かずにはいられなかった。
アンジェリークは少し瞳を泳がせた後、満面の笑みを浮かべた。
「なにもかも夢だったみたいに思えるわ。今のわたし、とても幸せ。」
嘘の無い言葉だった。
振り払いたい過去は、もう追いかけてはこない。
これからは女王として、美しい場所で楽しく過ごす日々が待っている。
今、アンジェリークは本当に幸せだったのだ。
「そう…。幸せですのね。よかった…。」
愛するオリヴィエと結ばれ、アンジェリークは輝いている。
女王の金の翼を持てば、さらに美しいだろう。
「アンジェ。わたくしはあなたが大好きですわ。本当に本当に、大切な親友…。」
ロザリアの両腕がアンジェリークを包み込んだ。
突然の抱擁にアンジェリークも驚いたが、すぐにロザリア以上の力で抱き返した。
「わたしもよ。ロザリア。」
一瞬、ロザリアの目の縁が光ったような気がして、アンジェリークはドキリと胸を震わせた。
なぜか、その涙をロザリアが無理に抑えたような気がしたからだ。
幸せの涙なら、我慢することはない。
怒る時も泣く時も、今までのロザリアは素直に心を見せてくれていた。
なぜ、今、彼女は我慢をするのだろう。
一緒に喜びを分かち合ってもいいはずなのに。
「ね、ロザリア。なにか…。」
アンジェリークが尋ねようとした時、大勢の人の足音が候補寮に入ってくるのが聞こえてきた。
ロザリアは抱きしめていた手を離し、アンジェリークの背後に目立たないように控えた。
聖地からの迎えの使者が、アンジェリークの前に跪く。
「新女王アンジェリーク・リモージュ様。聖地より女王陛下の命で参りました。」
アンジェリークに向けられた最上の礼。
「あ、ありがとうございます。」
頬を紅潮させ、恥ずかしげにぴょこんと頭を下げたアンジェリークの手を、使者が恭しくとり、歩き出した。
ぞろぞろと付き従う侍従たちが後に続く。
ロザリアは誇らしい気持ちで部屋を後にするアンジェリークを眺めていた。
彼女を取り巻く金の幸せのオーラが周囲を圧倒しているのがわかる。
候補寮の外で、アンジェリークと親しい守護聖たちが待ち構えていたのだろう。
ランディやマルセルの歓声がここまで聞こえてきていた。
「ロザリアさん。よろしいでしょうか?」
最後まで残っていた使者がロザリアに今後の日程を教えてくれた。
「すぐに即位式がありまして、そちらに出席していただけば女王候補としての任務は終了です。その後のことは、ディア様とよくご相談してください。」
アンジェリークとの約束を知っていて、ロザリアが補佐官になるという前提で話をしてくれている。
そのほかにもいくつかの確認をし、使者は礼をして部屋を出て行った。
残ったのは、ロザリア一人。
ロザリアは昨日から着たきりだったドレスを着替え、髪を梳かした。
一睡もしていないのに、青い瞳はいつもよりも光を増し、心は凪ぎを迎えたように静かだ。
女王候補として、最後まで恥ずかしくない姿を見せておきたい。
それがロザリアの最後の矜持だった。
鏡の中に微笑んで、ロザリアは即位式に向けたメイクを始めたのだった。