3月の雪

5.


次の日。
いつもよりも早く目が覚めてしまったロザリアは思い立って散歩に出た。
実のところ、昨夜はよく眠れなかったのだ。
食事もその後の散策も夢のように楽しかった。

オリヴィエはいつもロザリアに対して紳士的に振る舞ってくれる。
二人でいればとても優しくしてくれるし、困っているときは支えてくれるし、悩んでいれば励ましてくれて、慰めてくれる。
時に厳しいアドバイスをされることがあっても、根本には彼の心遣いがにじみ出ている気がして、不快に感じたことはない。
ロザリアはそんな彼に女王候補のころからずっと恋心を抱いてきた。
もちろん口にしたことはないけれど、アンジェリークはきっと薄々感づいていると思う。
オリヴィエと一緒にいると、なんとなく楽しそうな視線を向けられているのがわかるからだ。
もしかすると、オリヴィエもロザリアに同じ想いを抱いてくれているのではないかと、何度も思ったことがある。

昨日も。
イルミネーションが輝きだす前の静寂の瞬間。
確かに心が通い合ったような気がした。
けれど、オリヴィエは何も言わない。
ただ優しく手を引いて、ほほ笑んでくれただけだ。
その優しさがどの好意からくるものなのか。
何度も期待して、失望して、また喜んで、がっかりして。
たった一言。
一言だけが欲しいのに。



考えながら歩いていると、聞きなれた声が耳に流れ込んできた。
「やあっ!」
勢いのある掛け声と金属のぶつかる音。
ハッとして周囲を見ると、ずいぶん遠くまで歩いてきてしまったのに気が付いた。
もうそこはオスカーの屋敷だ。

「はっ。」
ランディの真剣な声に対して、
「どうした? 本気でかかってこい。」
まだまだ余裕といった雰囲気のオスカーの声。
日曜の朝の剣の稽古。
オスカーの具合も気にかかり、ロザリアは少し覗いてみようと声の方へと歩いていった。

剣の刃が朝日を浴びて、きらりと輝き、澄んだ音を辺りに散らしている。
剣を構え、オスカーに向かっていくランディ。
その剣を軽く払うだけで、相殺するオスカー。
どう見ても子猫がライオンに立ち向かっているようにしか見えないが、ランディの方は大真面目なのだろう。
何度倒されても向かっていく様は、ある意味、見事だ。
どちらもロザリアに気が付いた様子はなく、金属のぶつかる甲高い音だけが、あたりに響いている。
ロザリアも二人の真剣な様子に声をかけられず、黙って見守っていた。

「見えてないぜ。」
すっとランディの脇に剣を突き、ひらりと身をかわすオスカーは息を乱した様子もない。
「とやーっ!」
ひときわ大きな声で切り掛かったランディの足元でオスカーの剣が閃く。
「はあ。」
膝をついたランディにオスカーは剣を鞘に納めると、「今日はここまでだな。」と、ロザリアに視線を向けた。

「どうしたんだ? 君も剣の稽古をしてほしいのか?」
軽く汗を拭き、オスカーが笑いかける。
ランディもぴょこっと立ち上がると、「やあ、ロザリア!」 と、にっこりと笑った。
さっきまでの真剣さは消え、そこにはいつも通りの親しげな空気がある。
ロザリアも笑いながら、二人のもとへと近づいた。

「熱心ですのね。 」
「オスカー様が付き合ってくれているからね。 俺一人じゃできないよ。」
「生徒が熱心だと、こっちもつられるのさ。」
「教え方が上手いんだ。 ロザリアも習ってみたらどうだい?」
無邪気なランディにロザリアはくすくすと笑った。
「強い女性は敬遠されますもの。 それにオスカー先生はとても厳しそうで、わたくしには無理ですわ。」
「そんなことないさ! でも、あんまり強くなられても困るな。 女の子を守るのが俺たちの役目だし。」
ランディが誇らしげに腰にさした剣の鞘をぐっと握る。
オスカーは何も言わず、ただ笑みを浮かべただけだった。

「朝食があるぜ。 良ければ君もどうだ?」
稽古の後、一緒に朝食をとるのも習慣なのだろう。
当たり前のように言ったオスカーにランディが頭を掻いた。
「あ、すみません! オスカー様。
 俺、今日はこの後、マルセルたちと約束があって。
 急いで帰ります!」
ぺこっと頭だけ下げて、ランディはすぐに走って行ってしまった。
さようなら、という間もないほど慌ただしいのは、ランディにしてみればいつものこと。
ロザリアはオスカーと顔を見合わせると、くすっと笑った。

「…仕方のないやつだな。 せっかく用意しておいてもらったことだし、君が食べてくれると助かるんだが。」
苦笑するオスカーにロザリアは頷いた。
今日は特に予定もない。
前日に用意させておいたに違いない二人分の朝食を無駄にするのももったいないだろう。
オスカーと連れ立って、ロザリアはダイニングに向かった。


テーブルには籠に入ったパンやフルーツが並んでいる。
「スープを温めてくるから待っていてくれ。」
椅子を勧めるオスカーに、ロザリアは 「わたくしも手伝いますわ。 あなただけじゃ心配ですもの。」と、後に続いた。
オスカーがキッチンに立つ姿は想像しがたい。
とんでもないことになりそうで、期待よりも心配の方が大きかった。
食べられなくなってしまったら困る。
そんなロザリアの気持ちが顔に出ていたのだろう。
オスカーはどこか憮然としながらも楽しそうに鍋のふたを開けた。
「たしかに普段はランディにやらせてるがな。
 俺だって料理はできる方なんだぜ。 リンゴの皮むきは軍で一番早かった。」
「…信じられませんわ。 皮のほうが身よりも多くなるのではなくて?」

つんと横を向いたロザリアに オスカーが笑う。
ロザリアはコンロにかかっていた鍋を温めながら、冷蔵庫を覗き、入っていたベーコンを焼くことにした。
厚めに切られたベーコンは脂がフライパンに溜まるほど、ジューシーで美味しそうだ。
「ほう。 優秀な補佐官殿は料理も得意のようだな。」
「こんなの料理とは言いませんわ。 あなたの料理の腕とやらも推して知るべし、ですわね。」
オスカーが楽しそうに笑い声をあげる。
彼のこんな笑顔を見るのは久しぶりだと、ロザリアはふと思った。

そういえば、女王候補のとき、彼はロザリアに対してよく笑っていた。
からかうようだったこともあるし、嫌味なこともあった。
良くも悪くも素のままで接していてくれていたのだろう。
けれどいつの間にか、彼はロザリアに対して、きちんと守護聖らしく振る舞うようになっていた。
補佐官になったのだから、と今までは不思議に思わなかったが。

「これをあちらに運んでいただけます?」
焼き上がったベーコンを皿に盛り、オスカーに手渡すと、ロザリアは使った道具を片付け始めた。
使用人がやるからいい、とオスカーは言ったが、一日、汚れたままにしておくのは、ロザリアの気持ちが許せない。
予定外のことをしたのだから、片づけておくのは当然だろう。
手早く洗い、戸棚にしまおうとした時。
背後で大きな音がした。


「オスカー!」
振り向いたその先に、左手を震わせて、立ち尽くすオスカーの姿がある。
震える掌をじっと見つめる薄氷色の瞳に浮かぶ、言いようのない陰り。
ロザリアは慌てて駆け寄ると、下に散らばる皿とベーコンを集めた。
幸いなことに皿は割れずに転がっただけで済んでいる。
それなのにロザリアが拾い集め終わっても、まだ、呆然としたオスカーはその場を動いてはいなかった。

「どうなさったの? 」
やっと気が付いたようにオスカーの瞳に光が戻る。
そして、すぐに困ったような笑みを浮かべた。
「すまない。手が滑った。 せっかく君が焼いてくれた貴重なベーコンだったのにな。」
「そんなことはいいんですの。 お怪我は…?」
「ああ、なんともない。」

言いながらも、オスカーの左手は皿を持ったままの形で止まっている。
微かに震える掌。
右手で肘を抱え込み、その手を隠そうとしたオスカーの眉が寄るのがロザリアの目にもはっきりと分かった。
明らかな苦悶の表情。

「あなた…。まさか…。その手…。」
ロザリアはオスカーの左手を強引に引き寄せると、ぎゅっと握りしめた。

こんなにも強く握っているのに。
オスカーの手にはまるで力が感じられない。
握り返すわけでもなく、避けるわけでもない。
まるで人形のような、手。

「なんでもない。」
顔色一つ変えず言い放つオスカーをロザリアは睨み付けた。
「なんでもないはずないじゃありませんの! …こんな…。」
言葉が出ない。
すると、ふっと電気が通ったように、オスカーの手が動き、ロザリアから離れた。

「時々、力が入らなくなる。 いつもじゃない。
 手を使った後は特にそうなりやすいんだ。
 …さっき、ランディとやり合ったからな。 そのせいだろう。」
軽く左手を握り、オスカーは指の動きを確かめた。
まだ十分ではないが、不自然ではない程度には動いている。


ロザリアはただ震えていた。
頭の中であの事故がハッキリと蘇る。
オスカーの下にいたロザリアでさえ、あれだけの衝撃を感じたのだ。
まともにシャンデリアを受け止めたオスカーに、何もなかったはずがない。
あの事故のとき、左側が特に重症だったとは聞いていた。
けれど、包帯が取れた体は傷も残っておらず、さすがは鍛え上げているだけのことはある、と感心したものだった。
それなのに、こんな形で後遺症が残っていたなんて。

「あの事故のせいなのでしょう?! わたくしの…。 あの時、わたくしをかばったばかりに…。」
「君のせいじゃない。」
オスカーの手が肩に触れる。
「わたくしのせいですわ! 」
「あれは事故なんだ。 君の責任じゃない。 運命だった、というだけだ。」
「そんなこと! 本当ならわたくしがけがをしていたのに。 わたくしがけがをすればよかったんですわ! 」

泣けば余計にオスカーを苦しめることはわかっていた。
一番つらいのは自分ではない。
実際にケガに向き合わなければならないのは彼なのだから、泣いて、慰められる資格など、自分にはない。
わかっていても、涙があふれてくるのを止めることができなかった。

ふいに肩に置かれていた手がロザリアの背中に回されたかと思うと、オスカーの胸に抱き寄せられた。
抵抗する間もなく、腕に閉じ込められ、涙の滴が彼の服に染みを作り、声が吸い込まれていく。
しゃくりあげるロザリアの背を撫でる手は、どこまでも優しい。


「君を守れたことを俺は後悔していない。
 もしあのまま、君の上にシャンデリアが落ちていれば、君は確実に命を落としていた。
 君がこの世界から消えてしまうくらいなら、俺の命を捧げても構わない。
 こんな腕の一つや二つ、いくらでもくれてやる。」

「なぜ? そんな・・・。
 わたくしはただの補佐官で、女王ではありませんのよ。
 あなたが命に代えても守るのは女王陛下なのでしょう?」

この剣の誓いを捧げるのは、女王陛下ただ一人。
女王候補のころから、オスカーは常々そう言っていた。
騎士として、守るべき至高の存在。
事実、アンジェリークに対するオスカーの態度は、尊敬と敬愛に満ちていて、守護聖にふさわしいと思ってきたのだ。

「炎の守護聖として守るのは女王陛下だ。
 だが、俺は…。 一人の男としてのオスカーは…君を守りたい。」

ぎゅっとオスカーの腕に力がこもる。
息が苦しい。
ロザリアは包まれているオスカーから発する熱に圧倒されていた。
背中に添えられた手も、耳元で聞こえる吐息も、うるさいほどに鼓動を鳴らす胸も。
全てが…熱い。 

「君を愛しているんだ…。ロザリア。」

世界が止まった。

「伝えるつもりなんかなかった。 君の気持ちがどこにあるのか気づかないほど、俺だって馬鹿じゃない。
 だが、言わなければ君はずっと自分を 責め続けるだろう。
 俺が君をかばったのは、君のためなんかじゃない。 あくまで俺自身のためだ。
 君を失いたくないという、俺自身のエゴなんだ。
 だから、君は何も気にする必要はない。 …気にしなくて、いいんだ。」

一瞬、再びオスカーの腕に力がこもったかと思うと、彼はすぐにロザリアを開放した。
ロザリアから顔をそむけ、小さくため息をつく。
そこにいるのはいつもの自信満々な炎の守護聖ではなく、ただ苦悩する一人の男。

言葉もなく立ちすくむロザリアに
「すまない。 今日の朝食はなかったことにしてくれないか。
 誘っておいてなんだが、ベーコンもなくなってしまったことだしな。」
オスカーは背を向けたまま、その場を立ち去った。



機械的にでも足を動かせば、自然と前に進む。
家にたどり着いたロザリアは朝食をとることも忘れて、ソファに座り込んだ。
予想もしていなかったオスカーからの告白。
フェミニストでプレイボーイで、強くて、優しくて。
軽薄な一面は本当に彼の一面でしかないのだという事も、今のロザリアは良く知っている。

女王候補のころ、からかってくるばかりだった彼が、その実、ロザリアをリラックスさせようとしてくれていたことも。
強引なデートの誘いも気分転換の口実だったことも。
…その時のロザリアにとっては腹立たしかったが、後から思えば、オスカーの優しさだったのだ。


オスカーがロザリアから距離を置いたのは、女王試験の終わりごろだったかもしれないと、今になって思いだした。
からかいの言葉が減り、デートの誘いもなくなった。
それをロザリアは、単純に飽きたのだろうと解釈し、気にもしていなかった。
オスカーの周囲にはいつでもたくさんの女性がいて、楽しく遊んでいるようにしか見えなかったから。

それに、ロザリアはオリヴィエという存在に心を奪われていた。
女王試験とオリヴィエ。
それ以外は何も目に入っていなかったのだ。
結果として試験には負け、補佐官になってからも、オスカーとは同僚として、とてもいい関係を築いているとばかり思っていた。
まさか、あんなふうな…熱い想いを隠していたなんて。
気付こうともしなかった。

ロザリアは両腕で自分の身体を抱きしめた。
オスカーの腕の熱さ。
力強いのに、その腕はロザリアを壊そうとはせずに、むしろ守るように抱きしめていた。

あんなに強く誰かに求められたことがあっただろうか。
女王候補としてでもなく、補佐官としてでもなく、ただ一人のロザリアを。
彼は。
『愛している』 と言ってくれた。

「なぜ、あなたなの…?」

ロザリアが欲しいと願った言葉。
その一言をくれたのが、願った人ではないなんて。

頭の中で何度も繰り返される、オスカーの声。
その日一日、ロザリアは何も手につかず、呆然と時間を過ごしたのだった。


Page Top