3月の雪

6.


ロザリアの様子がおかしい。
月の曜日、朝礼で彼女を一目見たオリヴィエはすぐに気が付いた。
どこかソワソワして上の空。
彼女らしくないミスをもう3回も繰り返していて、今もまた、ファイルから取り出そうとした書類の束を床にばらまいてしまった。
すぐに近くにいたジュリアスとオスカーが拾い集めて手渡したが、それを受け取った彼女の手はわずかだが震えていた。

「どうしたの?」
朝礼が終わり、オリヴィエは最後まで残って片づけをするロザリアの背中に声をかけた。
「え?!」
こちらが驚くほどの大きな声で振り返ったロザリアは、オリヴィエを見て、取り繕うような笑みを浮かべた。
いつもは真っ青な瞳が赤みがかっているところを見ると、昨夜は眠れなかったのだろうか。
日の曜日、オリヴィエの知らない彼女の時間。
何があったのか知りたいと思うのが傲慢なのはわかっている。
全ての時間を共有できる、そんな関係にもなれないくせに。


「あ…。オリヴィエ。 ごめんなさい。
 ちょっと気になることがあって…。」
ロザリアは逃げるように言葉を濁した。
まだ心の整理がついていない今、どう話したらいいのかもわからない。
「なに? 私でよければ聞くよ。」
彼らしい言葉にロザリアは今度こそ本当の笑みを浮かべた。
同時にまたオリヴィエに心配をかけていると思うと、いたたまれないような気になる。

もしも 『オスカーに愛を告げられましたの。』と言ったら、オリヴィエは何というだろう。
『よかったね。』と笑って、ロザリアを祝福するのだろうか。
考えたくない。
自分の想いの結末を、そんなふうに突きつけられるのは辛すぎる。

「ごめんなさい。 あの、男性には言いにくいことですの。
 あとで陛下にでも相談してみますわ。」
言いにくそうに、そう告げられれば、オリヴィエもこれ以上は追及できない。
少し肩をすくめて、おどけて見せた。
「ああ…。 そうなんだ。 そういう時は無理しないで休んでね。
 そもそもあんたは働き過ぎなんだから。」
「ええ。気をつけますわ。」


また片付けに戻ったロザリアを残して、オリヴィエは執務室に戻ると、机に足を乗せ、指を組んだ。
ロザリアが見たら眉を顰めるだろうが、このポーズが一番思索に適しているのだ。
深く息を吸い込み、天井を見上げる。
その先に浮かぶのは、もちろんロザリアの顔。
金の曜日までは以前のように明るい笑顔だったのに、また今朝はどこか仮面のような笑顔だった。

あの事故以来、なにかが少しずつずれているような気がする。
波が寄せては返すように、その波が砂をさらうように。
少しずつだけれど、確実に何かが変わっている。
今ならまだ間に合うかもしれないと思うのに、自分がどうするべきなのか答えが見いだせない。

ロザリアを心から大事に思っている。
だからこそ、じっくりと時間をかけて、彼女との距離を縮めてきた。
はっきりと口にしたことはないけれど、二人の間にある想いはきっと同じだと信じている。
それなのに、押し寄せる不安感が足元を掬うような気がするのはなぜだろう。
暗い思考の淵に陥りかけたところでノックの音がした。
慌てて足を机から下ろしたオリヴィエは、秘書官を迎え入れると、執務を始めることにしたのだった。

 

日常は流れていく。
あの日から、ロザリアは今まで感じなかった視線を強く意識するようになっていた。
お茶会のとき、謁見の時。
ふと気が付くと、自分の背に向けられている、オスカーの視線。
冷たいアイスブルーが熱く注がれているのを感じるのだ。
ロザリアが振り向いたり、顔を上げた時には、すでにその視線は消え、オスカーの気配がすることもない。
けれど、確かにそこに彼がいたことがわかる。

もしかすると、今までもずっとオスカーはこうして、自分を見ていたのだろうか。
ただ、気が付いていなかっただけで。
いつの間にか、ロザリア自身もオスカーを目で追ってしまっていることに気が付いた。
ふとした時、彼の姿を探してしまう。
そしてその姿が目に入ると、なぜか、ほっとするのだ。
オリヴィエを見た時に思うときめきとは違う、まさに安堵という言葉が一番しっくりする感情。

説明しがたい気持ちにロザリアは困惑し、手っ取り早い方法として、なるべくオスカーを意識しないようにすることにした。
いつものように、執務をし、女王と冗談を言い合い、オリヴィエとランチやお茶をしたり。
日常にまぎれて、いつしか、抱える混乱が去ってしまうことを願って。


がしゃん、と陶器のぶつかる音に、ロザリアは顔を上げた。
補佐官主催のテラスでのお茶会。
今日は女王をはじめ、いつものメンバーだけが集まる和やかな会になっていた。
真っ先にロザリアの目に入ったのは、テーブルの上で転がるカップと、零れ落ちた紅茶。
その先にいる、オスカーとランディの二人。

「大丈夫ですの?!」
慌てて駆け寄ったロザリアはオスカーの手を握った。
「怪我は? 火傷はしていませんこと?」
以前、皿を取り落した時のことがフラッシュバックして、ロザリアは完全に取り乱していた。
オスカーの左手を何度も確認するようにこすり、目には涙まで浮かんできてしまう。
周囲の様子など、まるで目に入らなかった。

「…大丈夫だ。」
すっとロザリアから手を引き抜いたオスカーの声が頭上から聞こえてくる。
「俺は大丈夫だ。 むしろ、ランディの方が被害甚大だぜ。」
ぼんやりと促されるままランディの方に視線を向けたロザリアは、こぼれた紅茶を吸い込んだランディのシャツに目を丸くした。
倒れたカップは一直線にランディの方を向いている。
誰が倒したのか…どこに一番被害が及んでいるか。
一目瞭然だった。

「まあ! すぐに布巾を持って参りますわ。」
ハッとしたロザリアはすぐにいつものような笑みを浮かべ、屋敷の中へと駆け込んだ。
恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
あんなことをすれば、皆に不審がられてしまう。…オスカーのケガを知られてしまう。


「俺、ロザリアに嫌われてるのかな?」
全く気が付いてもらえなかったランディがしょんぼりと肩を落としている。
あの状態で先にオスカーを心配されれば、誰でもそう思うだろう。

「そうかもしれないな。 もっとも俺以上にレディに好かれる男がいるとは思えんが。」
オスカーが大仰に頷くと、ランディはさらにがっかりとした様子でため息をついている。
「まだまだですよね、俺じゃ。」
「そりゃ、比べちゃだめよ! だって、このオスカーよ? 全宇宙の女子の敵じゃない!」
女王の茶々が入り、場が和むと、ワイワイとしたお茶会の空気が戻ってくる。

「あ、冷たくなってきたよ。」
シャツのシミがドンドン広がり、中まで染み込んできたのだろう。
風に吹かれたランディの体がぶるっと震えた。
急いでシャツを脱いだランディをマルセルやゼフェル、女王陛下までが囃し立てる。
さっきのロザリアのちょっとした異変など、すっかり忘れられてしまったようだった。


ふざけたやり取りをオリヴィエだけは遠目から眺めていた。
取り乱したロザリアの様子。
オスカーのけがを極端に気にした姿は、オリヴィエから見れば不自然過ぎた。
布巾とタオルを持ってきたロザリアは、今度は甲斐甲斐しくランディの世話を焼いている。
そうした姿は全くいつも通りなのに。

オリヴィエは最近のロザリアが時々オスカーを見ることに気が付いていた。
誰も気が付いていない、と、彼女は思っているだろう。
オリヴィエだって、いつもロザリアを見ていたからこそ気が付いたことだ。
ただ、その時の彼女の瞳には、特別な想いは感じられない。
ただちらりと視線を向けるだけ。
つい先までそこにオスカーがいたことを確認するように、ほんの一瞬。
それだけなのに、この胸に湧き上がる焦燥感はなんだろう。

紅茶のこぼれたテーブルを拭き、ロザリアはカップを片付けている。
まだ年少組と女王は騒いでいるが、オスカーだけはその場を離れ、テーブルの反対側でじっと何かを考えているようだ。
アイスブルーの視線の持つ暗い影がオリヴィエの心にも影を落とす。
その後のお茶会をオリヴィエはほとんど覚えてはいなかった。



皆が帰った後、ロザリアはランディのシャツを漂白剤へとつけていた。
いつもならオリヴィエが片付けを手伝ってくれるが、今日は彼も忙しいらしい。
二人だけで過ごせるわずかな時間がなくなったことは残念だが、どこかほっとしてもいた。
この頃、どうしようもなく心が揺らいで、オリヴィエに何もかも打ち明けてしまいたくなる。
心の奥に閉じ込めている想いを告げて、『愛してほしい』と縋って。
でも結局、そんな勇気はないから、オリヴィエと一緒にいればいるほど、揺れ幅がどんどん大きくなっていくばかりだ。

どれほど一緒にいても、ロザリアはオリヴィエの気持ちがわからなかった。
考えても考えても、同じ答えしか出てこない。
たった一言をくれない彼。
『想い』という目に見えないものを信じることができるとしたら、それは言葉しかないのに。

水でこすったが、ランディのシャツのうっすらとした染みはまだ完全に抜けてはいない。
とくに紅茶のシミはついてしまってからでは落ちにくいことはわかっているけれど、少しでも元に戻れば、と、期待してやってみることにしたのだ。
あの時、先にランディに目を向けて、すぐにシャツを洗っていれば。
そんな後ろめたさが、この行動の原因だと、ロザリアも理解していた。
動転したのだ。
オスカーの手の不調を皆に知られてしまうのが怖くて。


「ロザリア。話がある。」
今まさに考えていた人の声に、ロザリアは体をびくりと震わせた。
振り向いた先には難しい顔をしたオスカーが腕を組んで立っている。
ロザリアは慌てて、いつもの笑みを浮かべると、オスカーに近づいた。

ソファを促されても、オスカーは軽く首を振り、腰を下ろそうとはしない。
重たい沈黙の中、ロザリアも立ったまま、彼の言葉を待った。
「…今日のようなことは止めてくれないか。」
それだけでオスカーの言いたいことはわかる。
ロザリアの不審な行動で、オスカーが隠しておきたいと思っていることが露見してしまうのだ。
我慢できないと思うのも無理はない。
申し訳なくて、ロザリアは 「ごめんなさい…。」と唇をかんだ。

「気を付けますわ・・・。 あなたのケガのこと、誰にも知られないようにしますから…。」
「違うんだ。」
ロザリアの言葉を遮るように、オスカーが声を荒げた。
びくりとしたロザリアに、オスカーはわずかに目を伏せ、ため息をついた。

「すまない。 だが、君の考えていることは違う。 俺は…。」
くっと喉を鳴らすような音はオスカーが笑おうとしたのだろう。
けれど、その努力は無駄に終わっていた。

「だから君には知られたくなかった…。」
ふと、ロザリアの頬にオスカーの指が触れる。
幼い子供を慈しむような触れ方に、ロザリアは手を払うこともできず、ただじっとオスカーを見つめた。
「君のこの瞳が好きだ。
 いつでもまっすぐに前を向いて、キラキラと輝いている。
 女王候補のころも、今も、俺をとらえて離さない…。」

今、囚われているのは自分の方だ。
ロザリアは熱く注がれるオスカーの視線に金縛りにあったように動けなくなっていた。
澄んだ湖面のようなアイスブルーは、冷たくも暖かくもない。
ただ、魅入られてしまう。
しばらく見つめ合った後、やっとオスカーが口を開いた。

「愛する女性から 憐みの目を向けられる男のつらさが、君にわかるか…?」
絞りだすようなかすれた声に、ロザリアは目を見開いた。
「憐みだなんて…思っていませんわ。 わたくしは、ただ…。」
心配で? 
それこそ彼を卑下しているのではないのか。
言葉に詰まったロザリアから、ふと、オスカーの指が離れていく。
彼の手が離れたのを寂しいと思うことに、ロザリアは驚いていた。

「ああ、そういえば、ランディが君に嫌われているんじゃないかと気にしていたぜ。
 補佐官なら、守護聖全員を平等に扱ってやってくれ。 アイツは拗ねるとなかなか厄介なんだ。」
最後はいつものからかうような笑みをのこし、オスカーは出ていった。
急にひやりと夕方の風が吹き抜け、ロザリアのドレスの裾を揺らす。

言葉が出ない。
オスカーの苦しみと、そして、傷つけられてもなお、ロザリアを愛しているという想いを、鋭い刃で突きつけられたような気がした。
憐みではない。 
では、良心の呵責なのか。
彼にけがを負わせたことに対する償いの気持ちなのか。
本当にそれだけならば…こんなにも迷うことはないだろう。
今は自分で自分が全く分からず、ただ途方に暮れるだけ。
ロザリアは自分の体を両腕で抱きしめると、落ちていく陽を静かに眺めていた。


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