4.
「ねえ、ロザリア。どうしてオスカーと付き合うことにしたの?」
無邪気な女王は時々頭が痛くなるようなことを平気で聞いてくる。
オスカーとお茶の時間を過ごした後、ロザリアが女王の間に戻ると、アンジェリークはまだのんびりとお茶を飲んでいた。
強引にお菓子を取り上げようと手を伸ばしたロザリアに、問いかけて来たのが、これだ。
「…あんたはそういうことを聞かれて、普通に答えるのかしら?」
嫌味を込めて冷たく言ってみても、やはりというか案の定というか、アンジェリークはめげない。
「うん。 何回も話したと思うけど、 もう一回聴きたい?」
「遠慮しておきますわ。」
逆にキラキラとした顔で言い返されて、ロザリアはため息をついた。
「なんでそんなことを聞きたいのよ。」
とりあえずお菓子を取り上げるのは諦めて、ロザリアも向かいに腰を下ろした。
今日は金の曜日。
残業になって、泣くのはきっとランディと約束しているアンジェリークの方だ。
仕事が大好きなロザリアにはなんの痛手もない。
「だって、ロザリア、オスカーのこと避けてたでしょ?」
「避けていたですって?」
思いがけない言葉にロザリアは驚いた。 とくに彼だけを差別して接していたつもりはないのに。
「わかるわよ! 女王試験の真ん中くらいから、わたしがいくら言っても、急にオスカーのところに行かなくなったし。
オスカーもあのイヤになるくらいのキザったらしいセリフをロザリアに言わなくなったし。
なんかあったんだろうな~~って思ってたけど。」
怖くて聞けなかった、とは、アンジェリークの心の中にしまっておくことにした。
あの頃、飛空都市じゅうの誰もが二人の変化には気がついていたはずだ。
もっとも聖地とは職員も変わっているから、今の二人しか知らない者たちにとっては、初めからこういう関係なのだと思われているだろうけれど。
「別に避けていたわけではありませんわ。 ただ、接点がなかっただけですの。」
ロザリアが執務室に行かなくなったら、会うことがなくなった。
オスカーの方から会いに来ることは一度もなかったから。
結局、彼はあの日の約束を謝ることもしなかったのだ。
そんな価値すら、ロザリアにはないと言うように。
「じゃあ、接点ができたってこと? どんな?」
好奇心丸出しで身を乗り出してくるアンジェリークをロザリアは掌で押し返した。
「それはこの次のお茶会で話しますわ。」
「ずるい~! 親友のわたしには一つくらい教えてよ~!」
頬を膨らませたアンジェリークが可愛らしくて、ロザリアはつい笑ってしまう。
本当にアンジェリークはずるい。
素直で可愛くて、自分とはまるで違う。
「そうですわね。 …月の綺麗な夜でしたわ。」
「夜!!! いきなりだわ!」
あの夜、彼とあの場所で会わなければ、きっと今でも一言も会話をしないままだっただろう。
そう思えば、不思議な縁、なのかもしれない。
「これ以上は秘密。」
ロザリアの微笑みがあまりにもキレイで、一瞬アンジェリークは見惚れてしまった。
それはそれは素敵な思い出、なのだろう。
これ以上聞くのは、確かに野暮かもしれない。
「ねえ、やっぱりオスカーって、キスは上手?」
ぴたり、とロザリアの動きが止まる。
まるで息まで止まってしまったようで、アンジェリークは慌てて、ロザリアの目の前で手を振った。
「ホラ、オスカーくらいになると、スゴイのかな~~って。
ランディはわたしとしかしてないっていうし、ちょっと参考にさせてほしいな、って。」
まくしたてるアンジェリークを横目に、ロザリアは丸くしていた目をすうっと細めた。
「そうですわね。 たぶん上手なのではないかしら? わたくしも比較できないから、どなたよりかはわかりませんけれど。」
「そっか! ロザリアが比較できないわよね。 やっだ~、わたしったら。」
ぺろっ、と舌を出したアンジェリークにロザリアは笑みを浮かべた。
けれど自分では笑顔のつもりだったが、実際は違ったらしい。
アンジェリークが心配そうに、覗きこんできた。
「どうかした?」
「いいえ。なんでもありませんわ。 ランディだって、今は上手になったんじゃありませんの?」
「えへへ。」
幸せそうなアンジェリークの顔。
「アンジェの初めてのキスの話を聞かせてほしいですわ。 アレは聞きましたけど、キスの話は聞いていませんもの。」
「えー! なんか今さら恥ずかしいなあ~。」
「あら、わたくしには聞いたじゃありませんの。それによっては、オスカーが上手かどうかもわかるかもしれませんわ。」
「じゃ、しょうがないか。…あのね。」
とうとうと語り始めたアンジェリークは、要約すれば3行ほどの話を、なんと1時間もかけて話したのだった。
その夜、早々に執務を切り上げたロザリアは、早足でオスカーの執務室に向かった。
早々と言っても、すでに19時を回り、原則残業を認めていない通常の職員は帰宅している。
普通なら、この部屋の中に彼は一人でいるはずだ。
ノックしたロザリアは返事を待たずに、いきなりドアを開けた。
案の定、彼は一人で執務机に座っている。
驚いて顔を上げたオスカーに向かって、手を挙げ、そのまま座っているように促すと、何事なのかと眉を寄せている彼のもとに近づいていった。
「どうしたんだ?」
さすがに座っている彼よりも、立っているロザリアの方が目線が高い。
自然と見下ろすような形になって、ロザリアはオスカーの瞳を見つめた。
澄んだアイスブルーは氷の色なのに、どこか熱っぽさのある危うい色だ。
惹きこまれてしまいそうになるのを、ロザリアは必死にこらえて、彼を見つめ続けた。
「…どうしたんだ?」
返事のないロザリアに焦れたのか、オスカーはもう一度同じ言葉で問いかけてくる。
ロザリアは内心、かなりがっかりした。
やっぱりアンジェリークと自分とでは、同じことをしていても無駄らしい。
想い合う二人と同じにはならない。
ロザリアは両手をオスカーの肩に置くと、驚いた顔をしているオスカーに静かに唇を寄せた。
思ったよりもずっと…熱い。
ほんの少し触れ合っただけなのに、ロザリアの唇は溶けそうなほど、熱を持っている。
初めて彼に触れた場所。
自分から望んでしたことなのに、思いがけないほど鼓動が激しくなってきて、めまいがしそうだ。
甘い陶酔に、そのまま動けずに固まってしまったロザリアは、もう一度、オスカーの瞳を見つめた。
「…一体どうしたんだ? 本当に君はロザリアなのか?」
呆れたようなオスカーの声にロザリアはようやく我に返った。
熱を帯びていた全身が、その声ですっと冷めていくのがわかる。
アンジェリークと同じことが起こるはずがないと、わかっていたのに。
一瞬でも期待してしまったことが悔しい。
「恋人にさようならのキスをしに来たことが、そんなにおかしいかしら?」
自分に向かって浮かべた自嘲の笑みだったが、彼にはそれなりの効果があったらしい。
オスカーはわずかに片眉を上げると、くっと笑い声を漏らした。
「ああ、それは嬉しいな。 君がこんなに情熱的な恋人だったとは、この2週間、気付かなかったぜ。」
なんて嫌味な言い方だろう。
たしかに今までこんなことはしなかったし、彼が帰宅前にロザリアの執務室に寄った時は、ろくに顔を上げることもしなかった。
けれど、二人にとって、初めてのキスなのだ。
もう少し、アンジェリークとランディのように、とは言わなくても、せめて、もっと優しく微笑んでくれたらいいのに。
「…お先に失礼しますわ。」
くるり、とロザリアはオスカーに背を向けた。
彼に一体、何を期待していたのか。
熱が去った後はただ、むなしさしか残らない。
ドアを閉めたロザリアは、大きくため息をつくと、唇を指でぬぐった。
カツカツとヒールの音が小さくなっていくと、息をつめていたオスカーはようやく、呼吸を繰り返した。
ふと指先で触れる唇。
ほんの一瞬、触れあっただけで、体中の熱が集まったようだ。
ロザリアがドアを開けた時、彼女の全身から溢れている緊張のオーラにぎょっとした。
いつも冷静な青い瞳が、熱に浮かされたようで。
その緊張のオーラのまま、隣に立たれた時は、「明日の予定は無しにしたい。」とでも言い出すのではないかと気が気ではなかった。
もしかしたら、別れ話かもしれない。
最初から彼女の気まぐれで始まったようなものだから、終わりも突然でおかしくはない。
軽口も引っこんで、ただ間抜けな言葉しか出なかった。
だから正直、驚いたのだ。
彼女の顔が近付いてきた時も、離れていった時も。
全てが非現実的すぎて、一瞬受け入れられなかった。
耳まで赤く染まって、相変わらず緊張のオーラを醸しているロザリアに、なぜあんなことを口走ってしまったのか。
本能のままに、もう一度キスをしていればよかったのか。
頭の中で答えの出ない堂々巡りが繰り返されている。
とにかく、不用意なオスカーの一言で、彼女のオーラはあっという間にいつも以上に冷たいものに変わってしまった。
赤かった頬が青ざめて、艶めいていた唇からもさっと血の気が引いていったのも確かに見た。
「くそ!」
オスカーは思わず床を蹴飛ばした。
なぜロザリアは突然あんなことをしたのだろう。
それを言い始めれば、全てが疑問になるが、とりあえず、今は、さっきの時間を巻き戻せたら、と思うだけだ。
せめて明日はバカなことを言わないように気をつけなければ、今度こそ全てが終わってしまう。
まだ残っていた書類に最後のサインを書きつけたオスカーは、とっくに消えた唇の熱を確かめるように、再び指を当てたのだった。