5.
土の曜日。
ロザリアは、何度も時計を見ては、バッグを持ち、また床に戻して、歩きまわってため息をつくという無駄な動作を重ねていた。
すでにバスも使い、準備自体は万端だ。
けれど、ぐずぐずと自分の中で言い訳を繰り返して、気がつけば日が暮れて始めている。
もう星が瞬き、薄闇のとばりが聖地を覆い隠そうとしていた。
昨夜のキスのことが頭から離れない。
それはもちろんいい意味ではなく、頭にきている、という意味だ。
あの時のオスカーの顔を思い出すたびに、今夜が最悪な結末にしかならない予感がしてくる。
行かない方がいいかもしれない。
でも、一度行くと言ってしまった以上、取りやめるなら彼に連絡しなければいけないだろう。
そうなれば言い訳が必要だし、上手く嘘をつきとおせる自信もない。
ドタキャンしてしまえばいいのに、それができない自分の性格がこういうときは恨めしい。
けれど、どうせイヤでも月の曜日には顔を合わせることになるのだ。
それならばいっそ正々堂々としたほうが気分もいい。
やることをやって、さっさと結末を迎えてしまおう。
ソファに腰をうずめていたロザリアは、ようやくすくっと立ち上がると、バッグを手にとった。
その頃オスカーは、なかばやけ酒のつもりでセラーからワインをとりだしていた。
ロザリアと飲もうと用意しておいた、ライトボディの赤。
この間、美味しいと言ってくれたワインと同じシャトーのものだ。
特にロザリアと時間の取り決めはしていなかったものの、先週と同じくらいには来るだろうと思っていた。
けれど、その時間を2時間過ぎても彼女は現れない。
昨日の出来事のせいなのか、それとも、全てが夢だったのか。
バカバカしいくらいに落ち着かない自分にも腹が立ってくる。
オープナーを強引に差し、グルグルとスクリューをねじ込むと、途中でコルクがひび割れて、ぽっきりと折れてしまった。
こうなると上手くコルクだけを取り出すのは至難の業だ。
スクリュー部分を再度差し込むと、案の定、コルクはさらに奥へと押し込まれていく。
完全に手詰まりの状況。
「くそ!」
オスカーはボトルをテーブルに叩きつけるように置くと、ごろりとソファに横になった。
なにもなければ、そのまま過ぎていたはずだ。
けれど、一度知ってしまったなら、もう抑えきれない。
抱きしめた柔らかさも、唇の熱さも。
たった一度のキスで、こんな気持ちになるなんて、本当にどうかしている。
それ以上に艶めいた夜も数えきれないほど経験しているというのに。
天井の模様をじっと眺めていると、ドアの開く音がする。
慌てて身を起こしたオスカーは、コルクの詰まったままのボトルを掴んだ。
「何をなさっているんですの?」
無礼だとは思ったが、ロザリアはノックもせずにドアを開けた。
オスカーのことだから、ロザリアが来ないとなれば他の女を連れ込んでいるかもしれない。
それならそれでも別にかまわなかった。…さすがに知らない女性と一緒にベッドに入る気にはならないけれど。
一度くらい見ておくのも悪くないとさえ思っていた。
彼の慌てた姿にはさぞかし溜飲が下がるだろう、とも。
それなのにオスカーときたら、ワインのボトルを下から覗きこんで、何やら真剣に考えこんでいる。
思わず声をかけてしまうと、オスカーは肩をすくめた。
「コルクが入りこんじまったんだ。」
ふっとため息をこぼしたオスカーの飾らない表情に、気負ってここまでやって来たロザリアは、なんだか気が抜けてしまった。
彼にとっては、本当になんでもないことなのだろう。
ロザリアとの約束も、その後考えられる情事も。
動揺を悟られたくなくて、ロザリアはさっと顔をそむけると、「キッチンはどこですの?」と奥へと足を向けた。
紅茶を淹れる道具ぐらいはあるだろうと、戸棚を探れば、やはり一応のセットが揃っている。
ロザリアはその中から茶漉しをとると、オスカーのところへと戻った。
彼は相変わらず、ボトルを抱えていて、困った顔をしている。
それがなぜか可愛らしい少年のように見えて、ロザリアも笑みを浮かべていた。
サイドボードからグラスと一緒にデキャンタをとりだすと、ようやくオスカーもロザリアの意図を読み取ったらしい。
再び、オープナーを手に取ると、スクリューの先で、コルクを一気に中へ押し込んだ。
半分にちぎれたコルクが、ワインの水面に浮かぶ。
このままではコルクだらけで、とても飲めた代物ではない。
ロザリアが茶漉しをデキャンタの口に当てると、それめがけて、オスカーがワインを注ぎこんだ。
「なるほどな。 これなら、飲めそうだ。」
ワインを注ぎきったオスカーがロザリアに向かってにやりと笑った。
「実家でもたまにお父様が開栓に失敗すると、お母様とこうしていましたの。」
茶漉しに残ったコルクの欠片と割れた栓を、ロザリアは軽く振ってみた。
コロコロと網目の上で踊る欠片たち。
仲のよかった両親は、食事以外の時でもくつろぎの時間に二人でワインを飲んでいた。
子供だったロザリアにも、小さなグラスを用意してくれて、ほんの一口だけだったけれど、飲ませてくれていたのだ。
おかげでロザリアはワインの味を知ることができたと思っている。
今思えば、両親は愛し合っていたのだろう。
貴族同士の愚かな恋愛ではなく、きちんとお互いだけを、心から。
ぼんやりしていたロザリアの前に、オスカーがグラスを差し出した。
「君のおかげで、このワインを美味しく飲めた。」
ほろ酔いのオスカーの軽いウインクも手伝って、ロザリアはそのグラスをためらいなく受け取った。
こんな風にくつろいで、二人でワインを飲んで。
いつかそんな人が自分にも現れると、子供の頃はそう思っていた。
「ありがとう。」
そう、こんな風に。
グラスを片手に、にっこりとほほ笑んだロザリアに、オスカーは素直に見惚れていた。
いつも見ている緊張を含んだ笑顔とはまるで違う。
なんの含みも衒いもない、硬い蕾が花開いたような笑顔。
ロザリアがグラスを傾けるたびに、ワインが喉を通って行く。
こくこくと思いがけない勢いで、ロザリアはグラスの中のワインを飲み干していった。
「デキャンタージュすると、やっぱり味わいが柔らかくなりますわね。 わたくし、苦みが強いモノよりもこちらの方が好きですわ。」
すでにアルコールを感じているのか、ロザリアの頬はほんのりと赤く染まっている。
オスカーは彼女の肩に手を回すと、静かに唇を近付けた。
ふいに触れた唇にロザリアはびっくりして、グラスを落してしまった。
中身はなかったから、絨毯に染みをつけることは避けられたものの、ごつんという鈍い音と、転がっていくグラスに反射する光を感じる。
拾おうと伸ばしたロザリアの手をオスカーの掌が掴む。
もう片方の手が自分の後頭部をぐっと抑え込むのを感じて、ロザリアはグラスを諦めた。
貪るように押し付けられるオスカーの熱い唇。
初めての出来事に、ロザリアはどう息をしたらいいのかもわからなくなった。
思わず彼のシャツにしがみつくと、より深い口づけが始まる。
言葉も吐息も全て絡め取られるような感覚に、ロザリアはただ目を閉じて、必死に彼を受け入れることしかできない。
息が止まってしまうのではないかと思うほど、長く続いた口づけのあと、ぼんやりと目を開けると、オスカーが真上からロザリアを見下ろしていた。
彼女の唇が欲しかった。
本当にそれだけの気持ちで、オスカーは彼女に唇を寄せていた。
昨日のキスからずっと、そうしたかったのだろう。
艶やかで柔らかな唇は、重ねた瞬間にオスカーの全身に熱が駆け廻る様な感覚を与えてくる。
逃げようとする彼女の手首を掴み、一気に頭を引き寄せた。
飢えが冷静さを奪っていくのがわかるのに、止めることができない。
青紫の髪に手を入れ、彼女の香りを肺に吸い込む。
さらに強く抱き寄せた瞬間、オスカーは、ふとその香りに既視感を覚えた。
馥郁の花の香りに、はっきりと主張する薔薇。
ロザリアらしいけれど、その香りは別の誰かを思い出させた。
何度となく、一緒に酒を飲み、私邸へ遊びに行ったこともあれば、シャワーを借りたこともある同僚。
その男がいつもつけている香水と同じ香り。
意識した途端、さっきまでとは違った温度の熱が、オスカーの身体を駆け上がってくる。
ロザリアの唇を割り、荒々しく舌をねじ込んだ。
彼女が苦しげに吐息を吐くと、さっきの花のような笑顔が頭にチラつく。
オリヴィエと過ごして、すぐにここへやって来たのか。
リラックスした様子に見えたのは、そのせいなのか。
オスカーは彼女の身体をソファに横たえた。
唇を離し、両手を彼女の横について青い瞳を見下ろす。
青い瞳は潤んでいて、ほんの少しの影が、その奥に覗いているような気もする。
なぜか胸が騒ぐけれど、薔薇の香りが思考を止めてしまった。
そう、はじめから、彼女はオスカーを誘惑していたのだから、迷うことも、ためらう必要もない。
お望み通りに、扱ってやればいい。…ひと時の快楽として。
オスカーはロザリアの首筋に、欲情の口づけを落した。
首筋にオスカーの唇を感じて、ロザリアは驚きで固まってしまった。
さっきまでのキスで、頭の中はすでに真っ白だ。
今まで仕入れて来たアンジェリーク達からの話も、本で読んだことも、全部消し飛んでいる。
まさかオスカーはこんなところでするつもりなのだろうか。
なんの前触れもなく始まった行為に、頭が混乱して、喉が張り付いたように声も出なくなる。
初めて身体に感じる不思議な感覚。
それがしばらく続いたかと思うと、突然訪れた激しい痛み。
痛みに翻弄され、なにもわからないまま気がつくと、オスカーの重みが消えていった。
そして、彼が息をのむ気配。
「すまなかった。」
ぼんやりと目を開けたロザリアの耳に、オスカーの言葉が飛び込んできた。
まだはっきりと状況が飲み込めなかったロザリアは、ソファの背もたれに捕まるようにして、なんとか身体を起こそうとした。
とたんに下腹部に感じる鈍い痛み。
足を少し動かしただけで、思わず顔をしかめてしまうほどの痛みが襲ってくる。
それでもなんとか起き上ったロザリアは、胸元がはだけていることに気がついて、慌てて前を掻き合わせた。
恥ずかしい。
明かりのついたままの部屋で、こんなことになってしまったことへのパニックで、ロザリアは言葉が出ない。
ぺたんとソファの上に座り込んだまま、スカートの裾を整え、ただ呆然としていた。
「こんなつもりじゃなかった。…君が、初めてだと知らなかったんだ。」
オスカーは床に跪いて、ロザリアの手をとった。
いつもなら自信に満ちて嫌味なほどのアイスブルーの瞳が歪んでいる。
ロザリアは彼の言葉を一つ一つ、咀嚼するように頭の中で再生した。
なぜ彼は謝罪する必要があるのだろう。
考えて、ようやくその意味に思い当ったロザリアは、すっと心の奥が冷めていくのを感じた。
「別にあなたが責任を感じる必要なんてありませんのよ。 たまたま、今日が最初の一回だっただけですわ。」
それにロザリア自身が望んでいたことなのだ。
むしろそのためだけに、オスカーと付き合うことにしたのだから。
「御安心なさって。 こんなことで、あなたを縛るつもりもありませんし、付きまとったりもしませんから。」
ロザリアは立ち上がった。
下着を直し、乱れた衣服を整えると、まだ跪いたままのオスカーに笑みを浮かべる。
「ごきげんよう。 帰らせていただきますわ。」
驚いた様子のオスカーが、もう一度、手首をつかんだが、ロザリアは強い力で振りほどいた。
動揺している事を知られたくない。
それになぜ、自分がこんなにも動揺しているのかも、考えたくない。
ロザリアは振り返ることなく、オスカーの家を飛び出した。
ちっとも素敵なんかじゃない。幸せでもない。
走るたびに、身体の奥が痛み出すけれど、ロザリアは暗闇の中をひたすら駆けた。
アンジェリークたちと同じ事が起きるだなんて、少しでも思ってはいけなかったのだ。
愛し合う二人でするからこそ、素敵な思い出になる。
昨日のキスで、十分わかっていたはずなのに、どうして、期待してしまったのだろう。
オスカーの後悔の滲んだ瞳を思い出すと、頭の奥が暗い痛みでおかしくなりそうだ。
軽い遊びの相手が初めてだったと知って、彼は慌てたのだろう。
責められると思ったのかもしれない。
だから、謝罪したのだ。
そんなつもりはなかった、と。
それに、やはり彼は、追いかけてきてもくれない。
家に着くなり、シャワーに駆けこんだロザリアは、体の隅々までを洗い流した。
まだ出かける前にバスを使った時の薔薇の香りが残っている。
あの時は、この香りと同じように、期待にはずんでいたのに。
着ていた服と下着をゴミ箱の中に押し込むと、長い髪から垂れた雫がロザリアの顔を覆った。
不思議なことに、タオルで何度顔を拭いても、雫はなかなかなくならない。
あとからあとから、瞳にあふれてくる。
ロザリアは拭くのを諦めて、濡れたまま、枕に顔をうずめた。
忘れてしまおう。
自分ならきっとできる。
あのすっぽかされたときだって、次の日にはちゃんと女王候補らしく、ふるまうことができたのだから。
残されたオスカーは、呆然とその場に跪いたままだった。
逃げるように飛び出していったロザリア。
傷ついた青い瞳は、あの日と全く同じだ。
また、同じ事を繰り返してしまった自分に嫌気がさす。
なぜ、ロザリアが相手だと、こうも上手くいかないのだろう。
人並み以上に女には慣れている自信があるし、実際、今まで上手くやって来た。
けれど、そんな経験も全くロザリアには役に立たない。
彼女はいつもオスカーの予想を裏切ってくる。
女王候補時代、デートをすっぽかした日のこともそうだ。
あの日、オスカーにはよんどころのない事情があった。
お忍びで女王陛下が飛空都市を訪れることになったのだ。
普段の女王候補たちの様子を直に見たい、と言われれば、オスカーにも異論はない。
炎の守護聖は、女王の警備隊長も兼ねているのだから、勅命のあるなしにかかわらず、護衛につくのは、当然の任務だった。
その連絡があったのが、すでにロザリアとの約束の30分前。
すぐに彼女に連絡を取ろうと精霊を呼び出したが、すでにロザリアは寮を出てしまったらしく、伝言することができない。
使いを遣ろうにも、日の曜日で屋敷に使用人はいない。
携帯電話もない飛空都市では、その緊急事態をロザリアに告げる手段がなかった。
待ちぼうけを食らわせることに抵抗はあったが、オスカーにとって、女王の存在は絶対的なもの。
心の中で謝りながら、女王に付き添い、飛空都市を回った。
オスカーにとって、予想外だったのは、ロザリアがずっと待っていたことだ。
プライドの高い彼女ならば、きっと30分も待たせれば、怒って帰るだろうと、どこかで思っていた。
それなのに。
ゆうに5時間以上、彼女はそこで待っていた。
いつかオスカーが来ると信じて。
オスカーを見た時のロザリアの表情を、今でもはっきりと思い出すことができる。
喜びに輝いて、すぐに、辛そうに歪んだ瞳。
上手く言い訳をすれば、まだよかったのか、それとも、すでに手遅れだったのかは、わからない。
けれど、あの時、ロザリアに女王陛下の事を話すわけにはいかなかった。
それに、オスカーはロザリアを傷つけたことに、自分でも信じられないくらい動揺していたのだ。
彼女が気丈にも、「日向ぼっこをしていた。」と言った時に、言い返すこともできないほど。
当然のように、その日からロザリアには避けられるようになった。
自ら招いたことなのだから、オスカーとしては、それを受け入れるしかない。
何度もロザリアに謝罪をしようと思いながらも、結局できなかったのは、彼女の口からはっきりと告げられることを恐れていたからだ。
拒絶されるくらいなら、近付かない方がいい。
情けないことに、そう考えたオスカーは、ロザリアに近付くことを止めた。
きっとこのまま、二度と彼女と関わりを持つことはないだろうと思っていたのだ。
あの月の夜の出会いがなければ。
オスカーは絨毯に転がっていたグラス取り上げた。
叩きつけようかと思って、縁にうっすらと残る、ルージュのあとに気づく。
あんなに綺麗な笑顔をオスカーに向けてくれていたのに。
意味のない嫉妬心で、また、彼女を傷つけてしまった。
こんな場所で、あんなふうに、ロザリアを奪ってしまったのだ。
考えてみれば、キス一つであれほど緊張していた彼女が、遊んでいるはずなどなかった。
気まじめで、自分に厳しい彼女が、オリヴィエと寝た後ですぐに、自分のところに来るなんてことも。
本当に、こんなつもりはなかった。
二人で軽くワインを飲み、冗談めいた会話を交わしながら、ゆっくりとベッドで一夜を過ごすつもりだった。
こんなふうに、彼女を傷つけるはずじゃなかった。
飛び出して追いかけたい、と思う気持ちをオスカーは抑えつけた。
今、会っても、きっとお互いに感情的になってしまうだけだろう。
自分自身、よくわからないのだ。
この後悔と罪悪感がいったい、何からくるものなのか。
数多くの女と一夜限りの遊びを繰り返してきたけれど、一度として、こんな気持ちを抱いたことはなかった。
テーブルに置かれたデキャンタに、アイスブルーの瞳が映り込んでいる。
オスカーはそのまま中の飲み残しのワインに口をつけた。
デキャンタージュされてまろやかになったはずの味が、やけに苦く感じて、オスカーは顔をゆがめた。