6.
月の曜日、ロザリアは、重い身体を引きずるように、聖殿へ出かけた。
結局、昨日は一日家に籠っていた。
気分が重いせいだけではなく、本当に体調も良くなかったのだ。
その不調は今朝も続いていて、今でも引き返して休もうかと迷っているほどで。
けれど、ロザリアが休んだとオスカーが知れば、面倒なことになるかもしれない、とも思った。
引きずる女だと思わるのは、まっぴらゴメンだし、同情されるのはもっと不愉快だ。
あんなことはなんでもない、と、普通の顔をしてオスカーの前に立たなければ、自分で自分が許せなくなりそうだった。
補佐官室で机に座ってみたものの、やはりどうにも体調がすぐれない。
いくつも積まれた書類を見ているだけで、頭がぐるぐると回ってくる。
ほんの少し休むつもりでロザリアは両肘を机に突き、組み合わせた手の指に額を乗せた。
ふっと、意識が途切れがちになる状態を何度か繰り返していると、ふいに、なにかが頭に触れている。
誰かの手だ、と思いつくよりも早く、頭の上から声がした。
「ちょっと、大丈夫?」
オリヴィエの声だ、とすぐに分かったけれど、ロザリアは顔を上げることができなかった。
小さく首を振り、気にしないでほしい、と伝えたつもりだったのに、オリヴィエは許してくれない。
「こっち向いて。」
顔を上げるのが辛くて、再び首を振ったロザリアの身体をオリヴィエが強引に引き起こした。
すかさず、彼の手がロザリアの額に触れる。
その手がとてもひんやりして気持ちがよかった。
「熱があるよ! あ~、もう。 あんたって、ホントにバカだね。」
「バカですって?」
聞き捨てならない言葉につい反論してしまった。
「そう、おバカだって言ってんの。 こんなんで執務なんてできるわけないでしょ。 医務室に行くから、ホラ、 捕まって。」
オリヴィエはロザリアの脇に腕を入れ、抱えるように立ち上がらせた。
なんとか立ち上がったように見えたロザリアだったが、オリヴィエに身体を預けたまま、肩で息をしている。
今まで意識していなかったけれど、熱があると言われれば、不思議なほどに、体中が悲鳴を上げ始めたのだ。
とても立っていられなくなって、ロザリアの膝が崩れ落ちる。
倒れる、と思った瞬間、オリヴィエの腕がロザリアを抱きしめ、身体ごと抱えあげた。
「まったく、見てらんない。 …大人しくしてなよ。 連れてくから。」
普段なら、お姫様だっこをされている自分を想像すらできなかっただろう。
けれど、今のロザリアには、それを拒絶する力も残っていなかった。
タイミングが悪い、という言葉は確かにある。
ちょうどオリヴィエが補佐官室を訪れた時、オスカーも同じ場所へ行こうとしていた。
何を言うべきかはまだはっきりと決まっていなかったが、聖殿以外の場所で会えるように話をするつもりだった。
女王候補の時のことも全部含めて、ゆっくりとロザリアと話をしたい。
オリヴィエが先に入っていったせいで、タイミングを逃したオスカーは、廊下で、彼が出てくるのを待つことにした。
執務時間中に長話をするロザリアではない。
すぐに出てくるだろうと、ドアから少し離れた壁にもたれて時間を潰していた。
そして、ドアが開いた時、オスカーは思わぬ場所に、ロザリアを見つけたのだ。
「オスカー。」
オリヴィエの甲高い声がやけに耳障りに感じた。
彼の腕の中に抱きかかえられているロザリアは、目を閉じたまま、苦しそうに息を吐いている。
具合が悪いのが一目で分かったが、オスカーは胸の奥のちりちりとした感情を抑えきれなかった。
「熱があるんだよ。 立つのも辛いみたいでさ。」
疾しさを感じさせない物言いで、オリヴィエが告げる。
「…俺が連れて行こう。」
オスカーはオリヴィエからロザリアの身体を受け取ろうと手を伸ばした。
オリヴィエが細身に見えて、しっかりした男だというのはわかっている。
任せておいても心配はないだろうが、ただ不愉快だと思うのだ。
オリヴィエは一瞬、オスカーを睨みつけたが、すぐに呆れたように肩をすくめて、オスカーにロザリアを渡そうと腕の位置を変えた。
「イヤ…。 お願い、このままでいて。」
はっきりとロザリアの声が聞こえた。
息をするのも苦しそうなのに、彼女はぎゅっと両手でオリヴィエの服を掴み、しがみついている。
「オスカーだよ? 」
ビックリしたようなオリヴィエの声にもロザリアは首を振るだけだ。
しがみついた手が震えているのが、オリヴィエにも伝わって来る。
本気で嫌がっているらしい。
さすがにこの状態でオスカーに渡すのに気が引けたオリヴィエは、小さくため息をついて、ロザリアを抱き直した。
「…わかった。 ね、オスカー。 お姫様はちゃんと私が連れてくから。」
返事のないオスカーの横をするりと抜けて、オリヴィエは歩きだした。
ロザリアの様子がおかしいのは、熱のせいなのか、それとも…なにかあったのか。
数歩進んだところで、突然肩を掴まれ、オリヴィエは振り返った。
アイスブルーの瞳をやけにぎらつかせたオスカーが、オリヴィエの前に立ちはだかってくる。
「俺が連れていく。」
「だから、ロザリアが嫌がってるでしょ。今は急いでるんだよ。 後で医務室に来ればいいじゃないか。」
イラついたオリヴィエは道を空けるようにオスカーに向かって顎を上げた。
苦しそうな彼女の様子が、オスカーの目には入っていないのか。
いつものオスカーなら、ふっと厭味ったらしい笑みを浮かべながらでも従うはずなのに。
オスカーは突然、ロザリアの腕を掴んだのだ。
「俺の抱き方が気に入らなかったのか? コイツの方が優しくしてくれると思ったのか?
あんなに喘いでたくせに、他の男がよくなったとは、とんだ淫売だな、君って女は。」
「ちょっと、オスカー!」
ロザリアを抱いているせいで、オリヴィエは手が出せなかった。
両手がふさがっていなかったら、とっくにオスカーを殴り倒している。
「あんた、自分が何言ってるかわかってんの?」
腕の中のロザリアが震えているのがわかった。
ロザリアはプライドの高い少女だ。
悪しざまに卑猥な言葉で辱められることを許すような少女ではない。
体調が悪い中でも、その身体には怒りが渦巻いているはずだ。
ロザリアは黙ってオリヴィエにしがみついている。
「どいて!」
オリヴィエは全身に力を込めて、背中でオスカーを押しのけると、ヒールとは思えない速度で廊下を駆けていった。
医務室についてすぐ、ロザリアは奥の小部屋で点滴を受ける羽目になった。
そういえば、昨日はほとんど食事をとっていなかったような気がする。
口にしたものを教えてほしい、という医者に、ロザリアは「フルーツを少し。」としか答えられなかったのだ。
「過労ですね。 かなりお疲れのようですから、ここで少しお休みなってください。」
医者は、軽く頭を下げると、ドアの向こうの医務室へと戻っていった。
おそらく医者として、彼女を少しでも休ませようと配慮してくれたのだろう。
しんと静まり返った場所で横になっていると、ロザリアはそれだけで呼吸が楽になってくるのを感じる。
ぼんやりと点滴の雫がチューブに落ちていくのを眺めていると、心配そうに見つめるオリヴィエに気がついた。
「ごめんなさい。あなたに迷惑をかけてしまいましたわ。」
弱弱しく呟くロザリアに、椅子に座って足を組んでいたオリヴィエは肩をすくめた。
「そんなのはいいよ。 あんたは頑張り過ぎだし、誰かにもっと頼っていいくらいなんだからさ。
…それより、オスカーとケンカでもしたの? 」
さっきのオスカーは明らかに様子がおかしかった。
いつもの余裕が全く感じられず、焦っているようにも見えた。
「ケンカ…。」
ロザリアはふっと、笑みを浮かべて、すぐにそれを消してしまう。
青い瞳が切なく揺れるのを、オリヴィエは気づいてしまった。
「ケンカなんかじゃありませんわ。 聞いたでしょう?
オスカーはわたくしを…。 止めましょう。 もう終わったことですもの。」
「終わった? あんたたちが? 別れたってこと?」
「そうですわ。 もう、終わったんですの。 お付き合いする理由もなくなりましたし。
・・・・ごめんなさい。オリヴィエ。少し、一人にしていただけるかしら。」
話しているのが辛い、とでもいうように、ロザリアは大きくため息をつくと、口をつぐんだ。
静かに目を閉じているロザリアに、オリヴィエもそれ以上は何も聞けない。
オスカーの言葉に、ロザリアは怒るだろうと思っていた。
けれど、今、彼女はとても傷ついているようだ。
「わかった。 今はゆっくりお休み。」
オリヴィエは彼女の頭をそっと撫でると、医務室を出た。
狭い聖殿では噂が駆け廻るまで、数日もかからない。
次の日も一日休みをとったロザリアが執務に復帰してすぐから、その噂は広まり始めていた。
なんといっても、あれほど一緒にいた二人が、ランチもお茶の時間も、別の場所で過ごしていれば、いやでも目につく。
もともとが目立つ二人なのだから、無理もない。
けれど、面と向かって二人にそれを問い詰めるようなツワモノがいるはずもなく。
それとない噂だけが流れていたのだ。
もちろん、それは女王アンジェリークの耳にも届いてくる。
数日後、朝一で女王の間を訪れたロザリアを、アンジェリークはあからさまにおかしな様子で出迎えた。
「お、おはよう、ロザリア。もう、調子はいいの?」
「ええ。 すっかり良くなりましたわ。 ご心配をおかけしてごめんなさい。」
「うん!いいの! わたしもロザリアにばっかり仕事させて悪かったかな、って反省してるし…。」
「そう思ったのなら、今日は頑張って頂戴ね。」
「う、うん…。」
挙動不審なアンジェリークが気にはなったが、執務はすでに押している。
あえて無視を決め込んで、ロザリアは書類を取り出した。
サインだけでいいもの、中身まで読んで欲しいもの。
とりあえず色分けした付箋の通りに書類を並べていたロザリアは、いい加減うんざりした様子でため息をついた。
「…そんなにじろじろ見ないでいただきたいわ。 言いたいことがあるなら、聞きますわよ。」
アンジェリークはぎょっとして、後ずさっている。
あそこまで凝視していて、気付かれていないと思う方が、ロザリアにとってはよっぽど不思議だ。
「ランディとケンカでもしたの? それともお休みがほしいの?」
じっとアンジェリークを見下ろせば、彼女は緑の瞳をかすかに伏せて、首を横に振った。
「わたしはなんにもないの。 …ね、ロザリア、オスカーと別れたってホント?」
ふと、静寂が二人の間に落ちる。
ロザリアはアンジェリークの視線を避けるように背中を向け、肩を落とした。
「誰がそんなことを…?」
一瞬ロザリアの脳裏にオリヴィエが浮かんだ。
オスカーと直接かかわったのは、ロザリアが倒れた時、罵りを浴びせられたのが最後だ。
たしかにあの場にいたのはオリヴィエ一人だが、ロザリアは彼がそれを人に言うとは思えなかった。
「だって…。みんな噂してるわ。 本当にどうなの?」
「そう…。」
噂になっている、ということは、ロザリアも気付いていた。
女官たちや秘書官の気遣わしげな視線や態度。
とくにオスカーと付き合うきっかけをくれた女官は、一番気にしているようで、ロザリアを見るたびに俯いている。
むしろ今まで誰も尋ねなかったことの方が不思議だ。
アンジェリークはじっと、ロザリアの背中を見つめた。
こんな様子のロザリアを、親友として放っておくことなんてできない。
「別れたなんて、ウソでしょ? だって、ロザリア、あんなに…。」
オスカーとのことを聞いた時、幸せそうにはにかんでいたロザリア。
あの笑顔は嘘ではなかったと信じている。
しばらくの間、ロザリアはじっと目を伏せていた。
けれど、すぐに顔を上げると、アンジェリークに振り返り、にっこりとほほ笑んだ。
「別れましたわ。 だって、もう、わたくしの目的は達成したんですもの。」
「目的?」
ロザリアの口調が急に冷たいモノに変わってアンジェリークは驚いた。
まるで執務の話でもしている時のように、その言葉には何の感情もこもっていない。
「ええ。 わたくし、今までずっと、恋人もできなくて、アンジェたちの話ばかり聞いていたでしょう?
してみたくなったんですの。 自分でも。 キスやそれ以上の楽しいこと。」
混乱した様子のアンジェリークに、ロザリアはさらににっこりとほほ笑んだ。
「オスカーなら最高の相手だと思いませんこと? 彼ときたら、女なら誰でもいいんですもの。
ろくに話もしたことのなかったわたくしとでも、簡単に付き合ってくれましたのよ。
それに、この間の土の曜日、もう彼と寝たんですの。 早いでしょう? あなた達とは大違い。
でもおかげで終わりにできますわ。 本当に期待通り。」
アンジェリークはまだ飲み込めないという顔で、ロザリアをポカンと見つめている。
それも仕方がない、とロザリアは小さく息をついた。
アンジェリークのように幸せな恋をしていれば、きっと、こんな気持ちにはならない。
「ずっと前から、オスカーなんて大嫌いですの。 彼の事を考えるだけで、不愉快になりますわ。
二度と、わたくしに、その話をしないで。」
「ロザリア…。」
アンジェリークの顔が真っ白になっていく。
大好きなアンジェリークに嫌われてしまったかもしれないと思うと、胸が痛い。
でも、もう本当に嫌だった。
オスカーの事を言われるくらいなら、誰とも話さないで一生暮らした方がマシだ。
ガタン、と大きな音がして、ロザリアは音した方へ目を向けた。
一番見たくない人の顔が見えて、ロザリアは凍りつく。
「君がそんな風に俺を見ていたとは思わなかった。 いや、さすが女王補佐官様は、俺のことをよくわかっているというべきなのか?
そんなことが目的だったのなら、最初から言って欲しかったな。俺だって、もっと悦くしてやれた。」
にやり、と薄い笑みを浮かべて、オスカーが立っていた。
ドアに背中を預け、ゆったりと腕を組むその様は、まさに聖地一のプレイボーイの風情だ。
軽い遊びで女を渡り歩く、悪い男。
オスカーはアイスブルーの瞳でじっとロザリアを見つめている。
ロザリアも同じくらいの強い力で、その瞳を見つめ返した。
アンジェリークが傍で、おろおろとそんな二人を見比べている。
先に目をそらしたオスカーは、肩をすくめて、鼻を鳴らしてみせた。
「君は俺で目的を果たした。 俺も君にいい思いをさせてもらった。 今回のことは、それで終わりにしよう。
たが、次は、俺ではなく、オリヴィエにでも頼んでくれ。
アイツも男だ。 寝たいだけなら、いくらでも相手になってくれるさ。」
「…オリヴィエを侮辱しないで。 あなたとは違いますわ。」
オスカーは鋭い目でロザリアを一瞥すると、別人のような穏やかな表情で、アンジェリークに向き直った。
「申し訳ありません。陛下。
せっかくのお呼び立てでしたが、私と補佐官殿は、初めから陛下の思うような関係ではなかったようです。
ご期待に添えず、残念ですが、これにて失礼させていただきます。」
慇懃に腰を折り、長靴の踵を合わせたオスカーは、アンジェリークに礼をすると、そのまま女王の間を後にした。
翻るマントにまで、一分の隙もない完璧な炎の守護聖。
カツカツと遠ざかる長靴の音が、ロザリアの耳にも聞こえてくる。
その音が、まるでロザリアとオスカーの離れていく距離のように思えて、ロザリアは耳をふさぎたくなった。
「ごめんなさい…。」
アンジェリークは、頭が膝につくような勢いで、身体を下へと折り曲げた。
「わたし、仲直りして欲しくて、あなたたち二人で話ができたら、って思ったの。
だからオスカーをここに呼んでいて…。 本当にごめんなさい。」
放っておいたら、土下座でもしそうな勢いのアンジェリークに、ロザリアは小さく笑った。
「気にしなくていいですわ。
もともとわたくしたちは想い合ってなんていなかったのですもの。
付き合っていたほうがおかしいのよ。」
それに、今までだって、オスカーと親しかったことなど一度もないのだ。
ちょっとよくない関係が、最悪な関係になっただけのこと。
「泣かないで。」
アンジェリークに言われて、ロザリアは涙が零れていることに気がついた。
「イヤですわ。 きっと、本当のことを言って、ホッとしてしまったんですわね。」
オスカーに近づいて、楽しかったのは、本当に出会ってすぐのあの頃だけだ。
あとは、いつだって、苦しくて、イライラして、思い通りにならない事ばかりで。
だから、彼には近付きたくなかった。
もうこれで、二度と近づくこともないだろうと思うと、気が抜けてしまったのは事実だ。
でもどうして。 自分でも涙の理由がわからない。
今さらオスカーに嫌われたくらいで、哀しいはずなんて、ないのだから。
静かに泣き続けるロザリアを、アンジェリークは見ていることしかできなかった。