7.
「あ、雨。」
窓をぼんやりと眺めていたオリヴィエは、急に激しく窓を叩き始めた雨音に舌打ちした。
「道理で髪がまとまらないと思ったよ。 あ~、ヤダヤダ。」
前髪を指でつまむと、いつもよりもくるんとした毛先が目に入る。
「もとからあちこち跳ねたような髪型の癖に文句を言うな。」
ソファに寝転んでいたオスカーが気のない様子で茶々を入れてくる。
オリヴィエは厚いカーテンを下ろすと、オスカーの向かいに腰を下ろした。
まだ夕方だというのに、オスカーはすでに出来上がっている。
何本ものビンが転がっているところを見ると、昨夜からずっと飲みっぱなしなのかもしれない。
部屋の中にもむせかえるほどの濃厚な香りが漂っている。
このところのオスカーは週末になるとこうして、自堕落に過ごしているらしい。
下界の匂いをさせていたり、酒びたりになっていたり。
習慣になっていたランディとの剣の稽古すら、まともにできたためしがないというのだから、重症だ。
平日はきちんと執務をこなしているから、誰も気が付いていないが、さすがに心配したランディから相談を持ちかけられ、オリヴィエもわざわざ今日、土の曜日の晩にオスカーを訪ねている。
予想以上にひどい状態に、オリヴィエはまず、転がったビンを片づけるところから始めることにした。
「まったく。バカだバカだと思ってたけど、あんたって、ホントにバカだね。」
「お前に言われたくない。」
オスカーはそれきり、また黙ってグラスを傾けている。
よっぽど酔わない男だというのは知っているが、これだけ飲めば、少しは頭も緩くなっているはずだ。
普段なら決して言わないようなことも、今なら言うかもしれない。
オリヴィエは来た時から気になっていたサイドボードの上のモノに手を伸ばした。
「コレも片づけるよ?」
オリヴィエが触れた瞬間、オスカーは起き上がり、ものすごい勢いでオリヴィエの手からそれを奪い返した。
「これに触るな。 …置いておいてくれ。」
「なんで? そんな風に置いといたって、酸化してくだけだよ。 匂いだって変わっちゃってるじゃないか。」
オスカーの手の中のデキャンタのワインは、すでに開ききってしまったのか、すっぱい匂いがしている。
もちろん、もう飲めるような代物ではないことは確かだ。
「構うな。 ごちゃごちゃ言うと、追い出すぞ。」
「この雨の中?」
「イヤなら、黙ってろ。」
オスカーはデキャンタを元の位置に戻すと、再びソファに横になった。
たぶん、彼はそれを目に入るところに置いておきたいのだろう。
オリヴィエはわざと大げさに、指先でその硬いガラスを鳴らして見せた。
「あの子と関係ある?」
答えがないのが、答えなのだ。
オスカーの瞳が暗く陰ったのがわかったが、ここで止めてしまうくらいなら来なかった。
オリヴィエはからかうように畳み掛けていく。
「まさか、一緒に飲んだワイン、とか?」
「うるさい。」
短い答えが、また何よりも雄弁にその事実を告げている。
ロザリアと飲んだワインを飲めなくなってもこうして残しているだなんて、とんだロマンチックだ。
しかもそのことに自分で気が付いていないのが性質が悪い。
「そういえばさ、ロザリアって、わりとワイン好きだよね。結構飲める口だし。」
軽い口ぶりで出した彼女の名前に、オスカーの眉がピクリと動く。
「ライトボディが好みなのは、ま、まだあの年じゃしょうがないけどさ。
あんた、知ってる? なんで、ロザリアがワイン好きなのかって。」
「やめろ。」
静かであっても、怒りのこもった声。
オスカーがここまで苛立ちを隠さないのも珍しい。
オリヴィエにしてみればなんてことないが、ランディあたりなら間違いなく震えあがっているような空気が、オスカーから流れてくる。
「白と赤はどっちが好きかも、知ってるかい?
どっちって聞いたことはないんだけど、飲むペースでわかっちゃうんだよね。
この間さ・・・。」
「やめろ!」
我慢できない、と声に出さなくても、オスカーの瞳でわかる。
睨みつけるアイスブルーの瞳が、どんな言葉よりも彼の心を語っているのだから。
「もしかして嫉妬してんの? 私に。」
「聞きたくないだけだ。」
「なんで?」
オスカーは、イライラと緋色の頭を掻きあげた。
「俺の方こそ、お前にいいことを教えてやる。 ロザリアが俺に近づいた理由を知ってるか?
男と寝てみたかった、だと。 後腐れなく遊べる男だと思って、俺に近づいたんだぜ。
ヤってすぐに別れるつもりだったなんて、お上品なそぶりで、たいした女じゃないか。」
溜まっていた心の澱を、オリヴィエに向かって投げつける。
オリヴィエが不愉快そうに眉を顰めたのが見えて、なぜかイライラした。
「ふーん。 あんたのこと、よくわかってるじゃない。 実際、女とみれば口説いて、かたっぱしから寝てるんだからさ。
ロザリアみたいに綺麗な子なら、あんただってまんざらじゃなかったでしょ?
いつもみたいに武勇伝の一つにしておけばいいじゃないか。
それとも、自分は散々同じようなことしてきたくせに、逆に、遊ばれて捨てられたら、ロザリアを恨んでるってこと?」
否定しきれない気持ちがオスカーの中にあった。
けれど、ただ恨んでいる、というのとも違う。
苦しくて、どうにもならない重い塊がとれなくて、忘れたいのに、忘れられない。
ロザリアを避けようと思うのに、どこにいても、彼女が目につく。
狭い聖殿で、補佐官と守護聖という立場で、完全に避けきれないのは仕方がないとしても。
「もう認めたら?」
「…なんのことだ?」
絡み合う、二人の視線。
もしも視線に熱があるなら、それはとても冷たいものだっただろう。
「あんた、ロザリアのこと好きなんでしょ?」
「なに?」
オスカーの喉元に冷たいナイフが沈んでくる。
くっと掻き切られる様な鋭い痛み。
「俺が? ロザリアを好きだって?」
「だって、プライベートは侵されたくないから、部屋に女は入れないとか言ってたくせにロザリアは入れたんでしょ?」
「ロザリアには家を知られてるんだ。今更隠したってしかたがないだろう?」
「家なんか誰だって知ってるってば。 あの子には最初っから許してた、そういうことなんじゃないの?」
「そんなつもりじゃない。…冗談はやめろ。 」
「そっちこそ止めてよね。 …それともホントに気付いてなかったとか?」
オリヴィエは薄く笑いながら、オスカーを斜に見下ろしている。
からかっているわけでも、ふざけているわけでもないのは、その冷ややかな視線から十分に理解できる。
オスカーは動揺を隠すように、ほとんど残っていないグラスを呷った。
はっきりと形を持たない、ロザリアへの感情。
彼女の前ではいつでも自分を見失い、思ってもいない行動をとってしまう。
その理由が、言葉一つで答えが出てしまうものだなんて、認めたくない。
「あんたって、大バカだと思ってたけど、可哀想なくらいのウルトラバカだったんだね。」
大げさに肩をすくめたオリヴィエに、オスカーは無言を貫いた。
これ以上、ロザリアの事を話題にすれば、オリヴィエのペースにはまってしまうだけだ。
知りたくないことを暴かれる様な真似はしたくない。
「このワイン、美味しいじゃない。」
サイドボードから勝手にグラスを出してきたオリヴィエは、テーブルに残っていたワインを注ぎ、グラスを傾けた。
わずかな酸味と渋みが、重厚な赤の風味と上手く調和している。
「…勝手に飲むな。」
「空けるの手伝ってあげてんの。」
オリヴィエはいいながら、ドンドン杯を重ね、残っていた最後の一滴までを飲み干した。
「バカでも何でもいいけどさ、こんなふうに自分が悲劇の主人公みたいにするのはやめときな。
みっともないったらありゃしない。」
ほとんどボトルを一本一人で空けたというのに、オリヴィエにはまったく酔った様子もない。
空になったボトルを肩に乗せて、立ち上がると、いまだに寝そべったままのオスカーを見下ろした。
「あんたが要らないなら、私がもらうよ。」
「なに?」
オスカーはさっと酔いもさめたような顔でオリヴィエをにらみつけた。
アイスブルーの瞳の奥に恐ろしいほどの激情が覗いている。
オリヴィエはくっと息を飲んだ後、堪え切れないというように笑いだした。
「ヤーダ、ヤダ。 冗談も通じないんだから。 ま、たまには頭使って、よく考えるんだね。」
いつの間にか雨も上がり、オリヴィエの姿も消えている。
すっかり飲む気も失せたオスカーは、わずかに残った酔いを覚まそうと雨の匂いのする外へと足を向けた。
かすんだ月が空に浮かんでいる。
暖かさのせいで湿り気を帯びた空気は世界全体を潤ませるように、ぼんやりと霞をかけていた。
ただでさえ、夢のような聖地という場所が、より一層非現実的に思えてしまう。
オスカーは当てもなく、ただ足の感覚だけを頼りに夜の中を歩いていた。
気がつけば、目の前に聖殿が広がっている。
自然と足が向いたのは、やはり行き慣れた場所なのか。それともなにか、別のことを期待しているのか。
オスカーは自嘲の笑みを浮かべると、裏門から中へと入っていった。
雨上がりの聖殿は、しんと静まり返り、木々から零れおちる雨音だけが空へ捧げる音色になっている。
あの日、ここで彼女に出会った。
女王宮の奥の中庭。
本来なら、ここは警備の対象ではないのに、オスカーは時々、ここまで足を踏み入れていた。
理由を意識したことなどなかっし、ただの気まぐれだと思っていたが、実際はどうだったのだろう。
今と同じ期待を抱いていたのではなかったのか。
もしかすると、ロザリアに会えるのではないかと。
オスカーはベンチに腰を下ろし、空を見上げた。
手が届きそうで届かない。
手に入れたと思っても、すぐに、すり抜けてしまう。
滴が葉を鳴らすたびに、オスカーは耳を澄ませた。
「奇跡は二度も起こらない、か…。」
始め方を間違えた。
なにもかも気づくのが遅すぎた。
夜が明けるまでベンチに座っていたオスカーは、まぶしくなる朝日に身をひるがえすと、そのまま執務室へと帰って行った。
噂が静まるまでも、そう時間はかからなかった。
何よりも二人が平然と執務を続けていたことが大きかったのだろう。
ロザリアは、午後のお茶を用意してくれた女官に微笑みかけると、窓の外を眺めた。
オスカーとのことを気にしていた彼女も、ようやく心配そうな顔をしなくなったようだ。
こうして彼とのことは、いつか何もなかったことになっていくのだろう。
青空の下、木の葉が一枚、ひらりと落ちていく。
知りたかったことを知って、自分は本当にオトナになったのだろうか。
何一つ変わっていないどころか、まるで後退してしまったようにすら感じる。
ぼんやりしていたロザリアは、いつの間にかアンジェリークがそばに来ていたことにも全く気が付かなった。
「ロザリア。」
すぐそばで聞こえてきた声に驚いて、ロザリアはアンジェリークを見つめた。
この間のことがあってから、気まずかったのか、アンジェリークはロザリアを呼び出してこなかった。
ロザリアもなんとなく思い出すのが嫌で、お茶の時間を一人で過ごしてきたのだ。
少し思いつめたような表情のアンジェリーク。
いつもなら、部屋に来たとたんに始まるマシンガントークも鳴りを潜めたままだ。
なんとなく申し訳ないような気がして、ロザリアはにっこりとほほ笑んだ。
「いらっしゃい。アンジェ。 今、お茶淹れるわね。」
変わらない様子のロザリアに、アンジェリークの顔がぱあっと輝く。
「うん! わたし、お菓子持ってきたの! 一緒に食べよ!」
お茶を用意して、ロザリアが奥の間から戻ると、アンジェリークはテーブルに座り、持ってきたお菓子をぱくついていた。
「ちょうどよかったわ。 この本、返そうと持っていたんですの。」
お茶を飲みながらロザリアは引き出しの奥にしまってあった本を取り出した。
オスカーとの一夜のために貸してもらったものの、結局、本の通りになどならないということが分かっただけ。
ラブロマンスはあくまで物語の中のお話なのだ。
ふっと、つい、小さなため息をこぼしたロザリアにアンジェリークは悲しそうにほほ笑んだ。
「わたしね、この本の中で、ヒロインよりもライバルの子のほうが、なんか好きなの。」
意外なアンジェリークの言葉にロザリアは驚いた。
「あんた、これを貸してくれた時、ヒロインの子の初体験が~とか言ってたじゃない。」
「それはそうなんだけど! 好きなのはライバルの子なの。
だって、すごく一途でけなげでしょ? 幼馴染の彼のことがずっと好きだったのに、途中から来たヒロインに取られちゃうんだよ?
しかも、一度だけでいい、って、悪い女になって彼を誘惑するところなんて、泣けるじゃない?」
淫らで凛々しくて、そして一途な彼女に、ロザリアも惹かれていた。
一度だけでもいいから、好きな人と結ばれたい。
そのためにはどんな手を使ってもいいと行動できる彼女の姿がまぶしくて。
彼女のようになりたいと思った。
そう考えて、ロザリアは息をのんだ。
自分の本当の願いはなんだったのだろう。
経験してみたかったことは。
ロザリアの沈黙をアンジェリークは別の意味にとったらしい。
「だいたい、この男が最悪なのよ!
結局、どっちにも手を出して、で、やっぱりヒロインのほうがいい、なんて。
わたしだったら、絶対、こんな男許さないわ!」
アンジェリークは本当に怒っている、というように、本の表紙に描かれている男の顔にぐりぐりと拳骨を当てた。
「大丈夫よ。 あんたは。」
ランディは絶対に浮気をしない。
いつだってアンジェリークだけをまっすぐに見つめる瞳はこちらが照れてしまうほどだ。
自分だって、あんなふうに彼に見つめてほしかった。
もしかして、あの時なら、そんなことがあるのかもしれない。
ロザリアだけを好きだと言ってくれて、優しくキスをしてくれて。
一度だけでも、淫らな女だと思われても。
本当の願いは。
「わたくしは…。」
言葉に詰まったロザリアの隣で、アンジェリークは静かに待っている。
紅茶の湯気がふわふわと空に舞って消えていき、やがて湯気が立ち上ることもなくなった。
「わたくしは、オスカーが…。」
好き。
ずっと、初めて会った時から、一度も彼を忘れることなどできなかった。
ただ体験してみたかったなんて嘘。
もしもあの月の夜に出会ったのがオスカーでなければ、噂になったのがオスカーでなければ、きっとなにもせずにいたに違いない。
オスカーだから、抱かれたいと思ったのだ。
「うん。 ロザリアはオスカーのこと、好きなんだよね。」
「…違いますわ。」
「違くない!」
アンジェリークは頬を膨らませて、ロザリアをにらみつけている。
「違くないよ! わたし、ずっとわかってたもん。 ロザリアが誰とも付き合ったりしないのは、オスカーのことを好きだからだって。」
「そんな…。」
自分でも気づいていなかった、蓋をしていた想いをアンジェリークには気づかれていたのだろうか。
それともとてもわかりやすくて、オスカーも気付いていたのだろうか。
だからこそ、彼は、あんなふうにロザリアを抱いたのかもしれない。
「ね、よく考えて。 ロザリアって、普段はあんなに頭もよくて、気が付くのに、どうして恋のことになるとこんなに鈍感なの?
好きなんでしょ? だったら、オスカーにちゃんと伝えなきゃ。
オスカーだって、絶対…。」
「もういいの。」
しゃべり続けるアンジェリークをロザリアは強引にさえぎった。
「いいのよ。アンジェ。
いまさら、気づいて、なにか変わることがあって?
オスカーに好きだと伝えて、あの時のことは冗談だったとでも言うのかしら?
そんなこと、わたくしだって信じないわ。」
「でも…。」
言い募るアンジェリークをロザリアは部屋から追い出した。
まだ執務時間中なのは事実だし、これ以上、心をえぐられたくなかったのだ。
「もう遅いのですわ。」
一人になったロザリアの口から、ため息と一緒に飛び出した言葉。
始め方を間違えてしまった。
ちゃんと想いを伝えて、そこから始めるべきだった。
取り返しのつかない恋は、もう諦めるしかない。
ロザリアは紅茶のカップを片づけると、何も考えなくてすむように執務を再開したのだった。