A world end with you

8.


聖地は閉鎖された空間だが、全く外部の人間が訪れないというわけではない。
ここ数週間、聖地を訪れているのは、星自体の寿命が尽きかけている、ある惑星の王子だった。
すでに移住しかないと宣告されているにもかかわらず、女王の加護を求めて王子は聖地までやってきた。
女王への謁見はめったに行われることはないが、惑星全体の移住が絡むとなれば話は別だ。
人々を守るためにも絶対的なリーダーの存在は必要であるし、王族となれば一時的な条件は果たしている。
民を先導し、新たな規律を築いていくに足る人物であるかどうか。
その見極めも聖地の仕事の一つでもあるからだ。

今回の場合、王子からの訴えは退けられることが決定した。
民は分散し、他の惑星への移住を進める。
古い慣習が好ましいものではない事も理由の一つで、いっそすべてを新しく変化させたほうが望ましい未来につながる。
これが聖地の出した結論だった。
もっとも王子の側としてはかなりの不服があるらしく、最後まで食い下がっていた。
分散しての移住になれば、今、彼らの持つ権力はすべてなくなるのだから当然だろう。
女王の間を辞する瞬間、王子はぎらついた目を御簾越しの女王に向けていた。


数週間続いた会議もようやく結論が出て、一息ついたロザリアは私邸への道を急いでいた。
王子が聖地を訪れてからというもの、女王の代理として接待のほとんどをロザリアが担当していたのだから、疲れも人一倍だ。
王子がまだ人間的に優れた人物なら相手も楽しかったのだろうが、彼は気位ばかりが高く、計算高い男だった。
ロザリアのもっとも嫌いな貴族的な男。
明日からは通常の執務に戻れるのかと思うと、夜道でも、つい足取りが軽くなる。
今日はゆっくりと薔薇のオイルのバスに浸かろう。

考えていると、急に鼻先に嫌な匂いが押し当てられた。
化学薬品の匂いだ、と、気づくよりも早く、目の前が暗くなってくる。
ロザリアは薄れていく意識の中で、必死にもがいて、胸元につけていたブローチを引きちぎった。
そして、スカートに滑らせてそっと地面へとブローチを落としておく。
誰かが気が付いてくれれば。
そこまでで、意識が途切れた。



次の日の朝。
時間になっても出勤しないロザリアを、皆が心配し始めていた。
すでに時計は定時を一時間以上も過ぎている。
今までただの一度も無断で休むことなどなかったうえに、私邸にも姿がない。
何か事故でもあったのかと、密かに調査が始まった。

「おい、オリヴィエ。 お前、本当に何も知らないのか?」
警備隊長として、真っ先に女王に呼び出されたオスカーは、床が壊れそうな勢いで足音を鳴らし、オリヴィエの執務室のドアを開けた。
「さっきも言った通り。 …ホントに知らないんだ。 昨夜、あの子が最後まで残ってたのは確かだけどね。」
オリヴィエが帰るときに補佐官室に顔を出したら、ロザリアは「ようやく嫌な仕事が片付きましたわ。」と笑っていた。
あと少しだけ、と残っていた彼女をきちんと送り届けていれば、こんな不安なことにはならなかったかもしれない。
オリヴィエは手入れの行き届いた爪に何度も噛みついた。
エナメルに歯形が残り、嫌な苦みが口の中に広がる。
オスカーはそんなオリヴィエを横目にソファに座り込んだ。

「何をすればいいのかわからないんだ。 何も手につかない。 …こんなことは初めてだ。」
探さなければいけない事はわかっている。
自ら先頭に立って、情報を集め、指示を出さなければいけない事も。
けれど、オスカーは未だかつてないほど動揺していた。
ロザリアがどうしているのか。 
そのことばかりが気になって、とても冷静でいられない。
オリヴィエのところに来たのも、警備隊長としての自分に耐えられなくなったからだ。
最悪の事態も想定する。
その当たり前のことさえ、どうしてもできない。

「オスカー様、オリヴィエ様。 女王陛下がお呼びです。」
警備兵の一人が、ドア越しにオスカー達を呼んでいる。
ただならない声の気配に、二人は同時に立ち上がり、女王の間へ急いだ。


女王の間にはアンジェリークが青い顔をして立っていて、その隣で彼女の体をランディが支えている。
普段なら考えられない光景だが、よほどのことがあったのだろう。
立っているのもやっとなのは、アンジェリークの足の震えを見ていればわかる。
「これを見てほしいの…。」
アンジェリークが震える手で差し出した白い封筒。
すでにランディは中身を見ているのか、二人に不安そうな目を向けたまま、黙り込んでいる。
オスカーはごくりとつばを飲み込むと、封筒を開けた。

折りたたまれた白い紙に、一房の髪が挟まれている。
見慣れたその髪色に、オスカーの顔から血の気が引いた。

「コレは…。」
横にいたオリヴィエも息をのんだ。
「ロザリアの髪…だよね?」
アンジェリークに視線を向けると、白い顔のまま、「たぶん…。」とつぶやいた。
髪をはさんでいた白い紙には、何の文字も書かれていない。
けれど、これが悪意のあるものだということは明らかだった。
「脅迫、かな。」
オリヴィエの言葉が重々しく女王の間に響く。

「補佐官を誘拐して、私達に要求を突きつけるつもりなんだろうね。
 これからなんかあるのか。 それとも…。」
「それとも? なんですか?」
ランディが勢いよく聞きこんでくる。
「もう、起きてることなのか。」

オスカーがグッと拳を握りしめた。
そうでもしていないと、叫び出しそうなほど、胸の中で熱いものがとぐろを巻いている。
「私達を恨んでそうな心当たり、あるでしょ。 昨日の今日だしね。」
「あ…。」
アンジェリークも思い当たることがあったようだ。

昨日、なんども食い下がってきた、王子の異様な瞳。
女性を蔑視する古い慣習を持つゆえに、女王という存在が自分の意のままにならないことを憎んでいるようでもあった。
それでも女王信仰を掲げている惑星だからこそ、聖地への出入りを許可したのだが。
彼なら補佐官のロザリアにその憎しみを向けることもあるかもしれない。
「あの王子…?」
「可能性は高いと思うね。 …こんなこと、普通じゃない。」
オリヴィエの顔が怒りに染まる。

オスカーは封筒に髪を戻し、オリヴィエに手渡した。
怒りと憎しみと。
恐らくここまで他人に激しい感情を抱いたことはなかっただろう。
抑えていても、炎のサクリアが体から噴き出してくるのがわかる。


「陛下。…手紙が届いております。」
沈黙を破るように、女官が静々と封筒を運んできた。
女王宛の手紙があれば、すぐにここへ運んでくるように、事前に命じてあったのだ。
白い封筒はさっきと同じもの。
女官を下がらせると、アンジェリークは震える手でペーパーナイフを使った。

白い紙に包まれた、一枚の写真。
コンクリの壁とどこにでもあるようなベッドが映っている。
そして。
そのベッドに横たわっている、ロザリアの姿。

「ロザリア!」
アンジェリークの手元をのぞき込んでいためいめいが思わず声を上げる。
青ざめた顔で横たわるロザリアはおそらく意識がないのだろう。
両手を拘束され、じっと目を閉じている。
けがをしている様子はないが、乱れた髪とドレスが痛々しい。
まるで質の悪いアダルトビデオでも見せられているような写真だった。

「なんか書いてあるよ。」
さっきの手紙では真っ白だった紙に今度は何かが書きつけてある。
『惑星ヴェタリス』
移住を決定したばかりの惑星の名。
アンジェリークの足から力が抜け、ランディの腕の中に倒れ込む。
自分の宣言で消滅を決定したことが、ロザリアを窮地に陥れているのだ。
心配と後悔で神経の糸が切れてしまったのだろう。

ランディに抱えさせて、アンジェリークを奥へ下がらせると、オリヴィエはオスカーを見つめた。
オスカーは高ぶりを抑え込もうと何度も深呼吸を繰り返している。
最後に一度大きく息を吐いて、目を開けたオスカーは、写真をじっと眺めた。
アイスブルーの瞳に燃えるような怒りが浮かんでいる。
「窓がないな。…地下か?」
「そうかもね。 明かりが天井から一つだし。 空家、倉庫。 そんな感じ?」
「聖殿からロザリアの私邸までの道を探そう。王子と従者が1名では遠くへは行けないはずだ。
 聖地を出ることは不可能だからな。 片っ端から当たれば、そう時間もかからない。」
「だね。 頭悪い男。」
人質である以上、生命の危機はそれほどないのかもしれない。
けれど、聖地の立場として、どんな脅迫があっても受け入れることはできないのは事実だ。
もし、自分たちの要求が通らないとなれば、彼らが何をするかはわからない。


警備兵達に行方不明の王子と従者の捜索を指示し、オスカー自ら、思い当たる個所に馬を駆った。
今はまだロザリアの拉致を知られるわけにはいかない。
大ごとになれば、それだけ、彼女に危険が迫るからだ。
オスカーは昨夜のロザリアの帰途をたどっていった。
平和な聖地には街灯もほとんどない。
さらに昨夜は新月で、道のりはそれほど明るくはなかっただろう。
暗い道を一人で帰していたのは、平和ボケとしか言いようがない。
「くそ!」
大切な女性一人守れなくて、警備隊長とは笑わせる。
叶わない想いだからと、ただ彼女から遠ざかり、自己憐憫に浸っていたことが悔やまれてならない。

馬上から辺りをうかがうと、キラッと道の隅で何かが光った。
オスカーは馬を降り、それを拾いあげる。
薔薇のブローチ。
ロザリアがつけていたものだとすぐに分かった。
「ここか。」
ピンが曲がってしまったブローチは、彼女が無理に引きちぎったせいだろう。
有事を伝えるには、十分すぎる手がかりだ。

ふと横を見ると、わずかに草が踏み荒らされ、うっすらとした足跡がある。
一人の人間にしては足跡が深いから、なにか重いもの、おそらくロザリアを持ち上げていたのだろう。
オスカーは携帯を取り出し、オリヴィエに連絡を取った。
相手は多くても二人で、おそらく武器も大したものは持っていない。
聖地に入る際にすべて没収されているからだ。

「ああ、この先に何があるか教えてくれ。…ふん。 おあつらえ向きの場所だな。
 殺したりはしないさ。 …多分な。」
地図によると、この先には、今は使われていない射撃訓練場があるらしい。
宇宙が安定する前は、聖地にももっと多くの兵がいて、有事の訓練を行っていたのだ。
声も漏れないだろうし、人も近づかない。
数日聖地にいただけだろうに、ずいぶんといい場所を見つけたものだ。
オスカーはその場に馬をつなぎ、焦る気持ちを抑えると、静かに木々の奥へと歩みを進めていった。



一方、ようやく意識を取り戻したロザリアは目の前に広がるコンクリの壁に絶句した。
ここはどこなのか。
目を見開いても、まったく思い当るところがない。
かび臭いベッドの感触が気持ちが悪く、起き上ろうとして、自分の手が拘束されていることに気づいた。
昨夜のことが急速に思い出されてくる。
嗅がされた薬品。途切れた意識。
まだ頭の奥がガンガンとして、上手く働かない。

こんなところにつかまっていては、アンジェリークに迷惑をかけてしまう。
意識が途切れる前に一瞬聞こえた下卑た笑い声は、あの王子のものだと思い出した。
目的は惑星の延命、ひいては自分たちの権力の延命に他ならない。
逃げ出さなくては。
とりあえずなんとかして拘束を解こうと、手首に巻かれたビニール紐に噛みついてみたものの、紐は少しも緩む気配がない。
手首が真っ赤にこすれてきても、ロザリアは一心不乱にロープを噛み続けた。


「外れないですよ。 女性の力では無理でしょう。」
重い鉄の扉が開いたかと思うと、王子の声が響いてくる。
コンクリの建物は音の反響が大きい。
頑丈な建物であることは間違いないだろう。
ここから叫んでもおそらく外へは全く聞こえないはずだ。

「やはりあなたですのね。 このようなことをなさっても無駄ですわ。
 聖地はあらゆる要求に屈したりはしません。」
「そうかもしれませんね。 実際、聖殿には大きな動きはないようだ。」
王子が近づいてくる。
ロザリアは静かに王子をにらみつけた。

「さっき、貴女の写真を女王に届けさせました。 私の星の名前と一緒にね。
 賢明な女王陛下であれば、すぐに理解されるでしょう。
 貴女と惑星と、どちらの命が陛下にとっては大切でしょうね?」
「陛下はそのようなことを天秤にかけたりなさいませんわ。」
アンジェリーク個人としてはロザリアを選ぶかもしれない。
けれど、聖地は、宇宙は、その選択を許さない。

「消滅の他の選択肢があるでしょう? それに、民を分散させずに、まるごと移住させれば、我々の治世は継続できる。
 それを認めてくださらないのは、聖地の傲慢ではありませんか?」
「本来なら、あなたの星の民は全滅してしまうのですよ。
 それを女王のお慈悲で助けることができるのです。 民の幸せを願うのが治世者の務めですわ。」
ロザリアの真っ向からの反論が、王子は気に入らないのだろう。
しばらくにらみ合った後、ふん、と鼻を鳴らし、にやりと嫌な笑いを浮かべた。

「さすが補佐官様ですね。 素晴らしい持論をお持ちだ。」
ロザリアは答えなかった。
体のラインや乱れたドレスの裾から伸びる足を王子の下卑た視線が這う。
気分が悪く、吐き気がする。

「陛下とは親友でいらっしゃるのですよね。」
王子がさらに近づいてくる。
禍々しい予感に、ロザリアは思わず後ずさった。

「親友の夫の願いなら陛下も聞き入れてくださるかもしれませんね。
 王妃となる惑星を消滅させてしまっては、貴女が不幸になってしまいますし。」
「何を…!」

王子は腰のベルトからナイフを取り出し、ロザリアの首筋にあてた。
「名案でしょう? 貴女は私の妻になるんです。 次期王妃ですよ? ありがたいでしょう?」
「残念ですけれど、わたくしにはそんなつもりはありませんわ。 脅しても無駄ですわよ。」
「何も痛みを与えるだけが脅しとは限りませんよ。妻にする、と言ったでしょう?」
王子の空いた手がドレス越しにロザリアの腿を撫で上げた。

「貴女が美しい方で張り合いがありますよ。
ここには私が国で使っているような薬がないのが残念ですがね。 
まあ、悦ばせる方法はいくらでもありますから。
所詮、女なんてものは、男に突っ込まれて、善がるだけしか能のない生き物ですよ。
女王補佐官がどんな味か、存分に楽しませてもらいましょう。」

王子の手が腿から腰へと上がってくる。
寒気が体中を駆けあがってきて、ロザリアは目を見開く。
喉元の冷たいナイフの感触と合わさって、体が凍り付いた。

ロザリアは、自分がこんな脅迫に屈するような小娘ではないと思っていた。
バージンでもない。
どうせ恋なんてあきらめているし、男に抱かれたからといって、何が変わるわけでもないことも知っている。
むしろ、素直に応じたほうが、男も油断して、逃げ出すチャンスが生まれるのではないかとさえ、考えていた。
けれど、実際に王子が近づいてきたとき、体が硬直して、何も考えられなくなった。
ただ不愉快で、逃げ出したい。
そして、頭に浮かぶのはオスカーの顔だけ。
もし、このまま穢されたら、彼には二度と会えない。


王子の手がロザリアのドレスの胸元にかかる。
キスをしようと執拗に近づいてくる王子の顔を、ロザリアは首をよじって避け続けた。
渾身の抵抗に苛立ちを隠せない王子が、ロザリアの首筋のナイフにすうっと力を込める。
冷たい刃の感触と痛み。
同時にドレスが引き裂かれて、肌に空気がふれた。

「いい身体をしてるじゃないか。」
のしかかった王子は、満足げな笑みを浮かべると、ロザリアの下着を引きずり下ろした。
ふるんと豊かな胸がこぼれおちて、王子がごくりと喉を鳴らしている。

こんな時。
アンジェリークが貸してくれるような三文ラブストーリーなら、恋人が助けに入るのだろう。
悪者を倒し、危機に陥っていた女性を胸に抱きしめ、愛の告白をして。
でも、自分にはそんな奇跡は訪れない。
オスカーはロザリアのことなんて何とも思っていないのだから、騎士になんて、なってはくれない。
自分を救えるのは、自分だけだ。

ロザリアにのしかかった王子は、引き裂いたドレスをさらに破ろうと、ナイフの刃を当てた。
ちょうどロザリアの胸の下あたりに、ちくっとした痛みがはしる。
ドレスを全て取られてしまえば、もう、男の手から逃れるすべはない。
力では敵わないし、拘束されていて武器を取ることも不可能だ。

逃れられるとしたら、方法は一つ。
ロザリアは全ての力を振り絞ると、ナイフの刃めがけて、体を起こした。
胸の下にあてられていたナイフが、起き上った勢いでロザリアに食い込んでいく。

驚いたのは王子のほうだ。
「うわああああ!!!」
慌ててロザリアから飛びのくと、呆然と立ち尽くした。
その間にも、ロザリアは拘束された手でナイフを押さえつけている。
脅かすだけのつもりだったナイフがロザリアの体に深々と刺さっていくのを見て、再び王子は悲鳴をあげた。



王子の声に、廃墟の中を忍んでいたオスカーは走りだした。
尋常でない叫び声は、明らかに恐怖がにじんでいる。
ロザリアではなく、王子の声なのが気にかかるが、予想外の出来事が起こっているのは確かだ。
悪い予感が体中を巡っている。
オスカーは足音を消すことも忘れて、声のほうへ向かっていった。

階段を駆け下ると重そうな鉄の扉がある。
声は明らかにここから聞こえてきているようだ。
幸いなことにカギはかけられておらず、力を込めると、扉はやすやすと開いた。
コンクリの壁、天井に一つだけついた照明。
写真の場所に間違いない。
続けて、オスカーの視線はすぐに呆然と口をパクパクとさせている王子をとらえた。
そして、その下に横たわるロザリアの姿も。

「ロザリア!」
王子を突き飛ばし、オスカーは跪くと、ロザリアの体を膝の上に抱え上げた。
あらわになった胸に深々と刺さっているナイフ。
刺さった個所から流れ出た血で、ドレスがジワリと赤黒く染まっている。
傷が背中まで届いているのか、抱き起したオスカーの掌にまで、じっとりと重い液体が滲んでくる。
「ロザリア! しっかりしろ!」
オスカーの声にロザリアはうっすらと目を開けると、驚いたようにほほ笑んだ。


「オスカー…。」
「ロザリア! なぜ、こんな!」
「まさか、あなたが来てくださるなんて…。 三文小説もバカにできませんわね…。」
オスカーの腕にロザリアの血が伝わってくる。
思ったよりも傷は深いのかもしれない。
ナイフを抜いたわけでもないのに、血が止まっていないのだ。
出血のせいで、ロザリアの顔はすでに紙のように白くなっている。

「オスカー! どうしたの?!」
オリヴィエの声と、多くの足音がオスカーの耳に届いた。
おそらく王子にはもう逃げる気力もなかったのだろう。
特に騒がしい様子もなく、兵たちに連れていかれているのが気配でわかる。
オリヴィエはロザリアの様子を覗き込むと、すぐに階段を駆け上がっていった。
本来なら自分がしなければいけないさまざまな手配を、オリヴィエならこなしてくれるはずだ。
オスカーはギュッとロザリアの頭を抱いた。
それくらいしかできることがないのが悔しい。


暖かい腕に包まれて、ロザリアの意識がふっと遠くなる。
今なら言ってもいいかもしれない。

「オスカー、好きですわ…。」

穢されるくらいなら死んだほうがマシだと思った。
自分にはオスカー以外の男を受け入れることなどできない。
やっぱり恋なんて愚かなこと。
命さえも捨てていいと思ってしまうなんて。
けれど、一人で冷たくなることを決意していたのに、こうしてオスカーに抱かれている。
愛する人の腕の中で、世界の終わりを迎えることができるだなんて、これ以上はないくらい幸せではないか。

「好き…。 あなたを好きなんですの…。」

ずっと伝えたかった。
始め方を間違えてしまった恋だったけれど、終わり方はきっとこれでいい。
ちゃんと想いを伝えることができたのだから。
オスカーの唇が動いている。
けれど、ロザリアにはその声が聞き取れなかった。
ふっと暗闇に落ちていく感覚に、ロザリアは目を閉じていた。


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